「主よ。いつまでですか。
 あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
 いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
 いつまで私は自分のたましいのうちで
 思い計らなければならないのでしょう。
 私の心には、一日中、悲しみがあります。
 いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。」(詩13:1-2)

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 聖書を開いた。
 詩篇12篇。
 理由は単純で、「順番」だからだ。

 読み進み、次の13篇に。
 上の聖句に行き当たり、この1-2節ばかり5分くらいしげしげと眺めていたであろうか(おそらくもっとだ)。
 すると俄然、「力」が湧いてきた。

 これに類する事が、私には何度もある。
 一番最初はもう1年以上は前であろうか。
 職場で体調を崩しきってしまい、保健室付設のベッドに横になっていたときだ。
 なぜか聖書も持ち合わせており、ベッド脇の蛍光灯の下、なんとなく読み始めた。
 「疲れた人、重荷を負っている人は……」(マタイ11:28-30)
 なにもなし。
 このように、ゆうに10箇所は「ここはどうだろう」と「計算」して聖書を開いた。
 「この聖書箇所ならば慰めをくれるだろう」というところを。
 どこを開いても、なにもなし。
 ふとぱらりと詩篇23篇が開け、「主は私の羊飼い」(詩23:1)が目に入った。
 それをまじまじと見つめたとき、しゃんっ、と、すっかり元気になってしまい、仕事場へと舞い戻ってしまった。しかも、その時の仕事は、非常によい出来だった。

 以来、気付くとそのときどきに、聖書は私に慰めと支えと力とを与えてくれた。
 この世の終わりすら覚悟した晩。
 不安で目覚めてしまった丑三つ時。
 憩いの昼休み、静かに力蓄えるとき。
 いつも、聖書が支えになってくれた。

 私が聖書についてこうやって書き続けているのは、聖書という書物の存在を伝える、ただそれだけが目的だ。
(力量不足はご勘弁願いたい)

 ただ、「どこを読めば元気が出る」「慰められる」といった類の方程式、因果律は、私には全くもって分からない。
 そんな方程式などあってたまるかと、思っている。
 そう思いつつ、今日も聖書を開いてみた。

 聖書を前にひざまずくとき、魂のうめきに神がお応え下さる、単にそう思うことが、あるいは「私の信仰」なのかも知れない。