なんだか満月の夜は眠れない!
これまでを振り返ってみるに、いつもそうだった。
「グラウンディングができていないからだ!」とあるヒーラーさんに言われたことがあったっけ。誰に言われたんだっけな…。
なぜなのだろう!
満月の日には、自分自身の中でほんの小さなイベントが起きる。
精神世界を愛する人々は、満月や新月の日になにかいいことをいろいろとやっているらしいが、私はどうしてもそんな気分になれない。今日はなんだか、姉のことを思ってしまう。胸のあたりが苦しい…。
心の浄化だろうか?
20歳になった時に、
母に、「おなたとお姉ちゃんとは、父親がちがうのよ!」と打ち明けられた。
すごいショックでおいおいと声をあげて泣いてしまった。異父姉弟か!?
再婚組であることはそういえば、以前から聞かされていたような記憶がある。
母は軽い気持ちで話していたらしく、「あれっ?前にも話したこと無かったけ?」って感じだった。
その話を聞いていて、
男が、母親の前で泣くなんて、恥ずかしいと思いながらも嗚咽状態で泣きに泣いた。
泣くところを母親に見られるのがとてもとても恥ずかしかった。ちょうど20歳の時だった。
私が、物心がついてから母親の前で泣いたことが、もう一度あったことを記憶している。小学校1年生の時だ。7歳の夏に双子の兄が亡くなった。重度の脳性麻痺で、しょっちゅう入退院を繰り返していた。母親がいつもうちにいなくて父親といつも一緒に行動をしていたのはそのためだ。当時は、医療費をぜんがく負担しなければならなくて、お給料が病院への支払いですべて消えていったという。
兄の告別式の会場で、父は「兄のせいで金がかかって貯えが全然できなくて苦労した。兄が死んでも俺は泣かん」と言っていたらしい。母はなんて冷たい人なのだと思ったらしい。それを聞いて私は、父なりの優しさを表現しているのかな?と思った。
母は、「兄の死」を受け入れるまで、10年かかったといっていた。夜中に目が覚めると泣いていたらしい。そんな日々を繰り返して10年くらいたったある時に、「あぁ~兄はもういないんだな」と気づいたらしい。女親にしてみれば、気が違えてしまうほどのことであっただろう。
30歳を過ぎたころ、母と話をしていたら、
姉の父親が亡くなったことを聞かされた。
姉の父親は結核で死んだと聞かされていた。それは方便であって自分自身の気持ちの整理がつかないから仕方がなかったのだ、と母は言うのだが、その時の私は、自分の都合で事実をゆがめておいて、方便もくそもあるものか!と怒りを感じていた。
よくよく話をきいてみると、
なんでも、姉の父親はとても優しい人で、大きな声を出したことが一度もない、勉強家で努力家でトテモ尊敬できるひとだということだった。当時のだんなさんの実家が層化の教会をやっていて、どうしても層化がいやで嫌いで、教会の跡目をつぐのが嫌で厭で仕方がなくて、ダンナさんを尊敬している気持を超えてまでも層化が嫌で離婚したということだ。つい先日、姉の実父が亡くなったらしい。連絡が青森からきていたらしい。
育ての親である私の実父は、大きな声をだす人だった。いつも不機嫌そうにして新聞を読んでいた。小学生の私は、いつ怒鳴られるかしれないので、恐ろしくて話しかけることができなかった。夜中に両親のけんかをしている声でよく目が覚めた。子供ながらに、母親がわがままを言っていて、父親が切れているような気がしていた。
私は、すぐに大きな声をだして怒鳴る父親が弱い人だと思っていた。母親は感情型で、思考型の私には、母親の考え方や行動が理解できなかった。
父親は、小学生の私を連れてよく東京に出かけた。私は父親っ子だった。母が病弱な兄の看病をしていたからだった。あとで聞かされて知ったことなのだが、東京で一人暮らしをしている姉のことを心配して何度も何度も様子を見に行っていたらしい。
私だったら、自分の実子ではない子にどれほど、愛情を注げるかな?と考えてしまいそうだ。変に優しくしすぎたり、無関心になったりはしないかな?自分を見つめる機会が増えてしまいそう。不自然な責任感から、自分を無理に拘束してしまうかもしれない。禁止ごとを自分の中でたくさん作ってしまうかもしれない。
姉に電話をして、
話をしたら、彼女も父親が亡くなってから、生きていたことを知らされたらしい。「一目でいいから会いたかった。」と泣いていた。
姉は、
往年の大スター沢○研二の従兄だということだった。
なんと、姉は沢○研二と親戚なんだな。ビックリだった。私が小学生のころは、毎日TVにでている綺麗な顔をした超イケメン歌手。
姉とは全然似ていない。
小学生男子の大スター、みんな彼のヒット曲を口ずさんでいたっけ。
片手にピストル~、心に花束、唇に火の酒、って今でも覚えている、今でも歌える。
これまでを振り返ってみるに、いつもそうだった。
「グラウンディングができていないからだ!」とあるヒーラーさんに言われたことがあったっけ。誰に言われたんだっけな…。
なぜなのだろう!
満月の日には、自分自身の中でほんの小さなイベントが起きる。
精神世界を愛する人々は、満月や新月の日になにかいいことをいろいろとやっているらしいが、私はどうしてもそんな気分になれない。今日はなんだか、姉のことを思ってしまう。胸のあたりが苦しい…。
心の浄化だろうか?
20歳になった時に、
母に、「おなたとお姉ちゃんとは、父親がちがうのよ!」と打ち明けられた。
すごいショックでおいおいと声をあげて泣いてしまった。異父姉弟か!?
再婚組であることはそういえば、以前から聞かされていたような記憶がある。
母は軽い気持ちで話していたらしく、「あれっ?前にも話したこと無かったけ?」って感じだった。
その話を聞いていて、
男が、母親の前で泣くなんて、恥ずかしいと思いながらも嗚咽状態で泣きに泣いた。
泣くところを母親に見られるのがとてもとても恥ずかしかった。ちょうど20歳の時だった。
私が、物心がついてから母親の前で泣いたことが、もう一度あったことを記憶している。小学校1年生の時だ。7歳の夏に双子の兄が亡くなった。重度の脳性麻痺で、しょっちゅう入退院を繰り返していた。母親がいつもうちにいなくて父親といつも一緒に行動をしていたのはそのためだ。当時は、医療費をぜんがく負担しなければならなくて、お給料が病院への支払いですべて消えていったという。
兄の告別式の会場で、父は「兄のせいで金がかかって貯えが全然できなくて苦労した。兄が死んでも俺は泣かん」と言っていたらしい。母はなんて冷たい人なのだと思ったらしい。それを聞いて私は、父なりの優しさを表現しているのかな?と思った。
母は、「兄の死」を受け入れるまで、10年かかったといっていた。夜中に目が覚めると泣いていたらしい。そんな日々を繰り返して10年くらいたったある時に、「あぁ~兄はもういないんだな」と気づいたらしい。女親にしてみれば、気が違えてしまうほどのことであっただろう。
30歳を過ぎたころ、母と話をしていたら、
姉の父親が亡くなったことを聞かされた。
姉の父親は結核で死んだと聞かされていた。それは方便であって自分自身の気持ちの整理がつかないから仕方がなかったのだ、と母は言うのだが、その時の私は、自分の都合で事実をゆがめておいて、方便もくそもあるものか!と怒りを感じていた。
よくよく話をきいてみると、
なんでも、姉の父親はとても優しい人で、大きな声を出したことが一度もない、勉強家で努力家でトテモ尊敬できるひとだということだった。当時のだんなさんの実家が層化の教会をやっていて、どうしても層化がいやで嫌いで、教会の跡目をつぐのが嫌で厭で仕方がなくて、ダンナさんを尊敬している気持を超えてまでも層化が嫌で離婚したということだ。つい先日、姉の実父が亡くなったらしい。連絡が青森からきていたらしい。
育ての親である私の実父は、大きな声をだす人だった。いつも不機嫌そうにして新聞を読んでいた。小学生の私は、いつ怒鳴られるかしれないので、恐ろしくて話しかけることができなかった。夜中に両親のけんかをしている声でよく目が覚めた。子供ながらに、母親がわがままを言っていて、父親が切れているような気がしていた。
私は、すぐに大きな声をだして怒鳴る父親が弱い人だと思っていた。母親は感情型で、思考型の私には、母親の考え方や行動が理解できなかった。
父親は、小学生の私を連れてよく東京に出かけた。私は父親っ子だった。母が病弱な兄の看病をしていたからだった。あとで聞かされて知ったことなのだが、東京で一人暮らしをしている姉のことを心配して何度も何度も様子を見に行っていたらしい。
私だったら、自分の実子ではない子にどれほど、愛情を注げるかな?と考えてしまいそうだ。変に優しくしすぎたり、無関心になったりはしないかな?自分を見つめる機会が増えてしまいそう。不自然な責任感から、自分を無理に拘束してしまうかもしれない。禁止ごとを自分の中でたくさん作ってしまうかもしれない。
姉に電話をして、
話をしたら、彼女も父親が亡くなってから、生きていたことを知らされたらしい。「一目でいいから会いたかった。」と泣いていた。
姉は、
往年の大スター沢○研二の従兄だということだった。
なんと、姉は沢○研二と親戚なんだな。ビックリだった。私が小学生のころは、毎日TVにでている綺麗な顔をした超イケメン歌手。
姉とは全然似ていない。
小学生男子の大スター、みんな彼のヒット曲を口ずさんでいたっけ。
片手にピストル~、心に花束、唇に火の酒、って今でも覚えている、今でも歌える。