どうしても行きたかった、念願の〈フィレンツェ〉へ! | 西方見聞録(旧パリレポート)

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2015〜2020年パリ、2020年4月に本帰国しました。帰国後も”これは!”と思うものを探し、レポートしています!!

先日、フィレンツェ
行って参りました。
煉瓦色に統一された美しい街です!

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実はフィレンツェは
私がヨーロッパの都市で
最も行きたかった街。

その理由は、
《今日の世界は
フィレンツェあってのもの》
と私は思っているからです。
(あくまで私の意見です)

もちろんフィレンツェ以外にも
歴史的に大事な街はたくさんありますが、

フィレンツェは
“今日の世界の源流となった街”
だと思います。

そう思う理由は、簡単に言うと
《ルネサンス》がこの街から
始まったから

つまりこの街が
新しい世界を生み出し、

それが世界に広がって行き
今の世界があります。

さらに、
《ルネサンス》以外にも
「銀行」が本格的に
力を持つようになったのも
この街からだから。

「銀行」ってお金を預ける所、
ぐらいに思ってましたが、

ところがどっこい!

「銀行」は権力と
深く結びついています。

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フィレンツェはイタリアの中北部に
位置していますが、

この地は
地理的に中東とヨーロッパの境に
位置していて

ゆえに中東世界との貿易で
昔から莫大な利益を上げてきたわけです。
フィレンツェの位置。ジェノヴァ、ヴェネツィアを中心に、中東との貿易で北イタリアは莫大な利益を上げてました。青線は貿易路

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北イタリアは上のように
《ジェノヴァ》《ヴェネツィア》を
中心に、中東と貿易して
莫大な利益を得、
(主にアジアからの香辛料を欧州へ独占販売)

ゆえに商人が強力な力を付け
10〜11世紀(900〜1000年)にかけて
市民が自治権を獲得。

13世紀(1200年代)には
共和制を実現させるようになり
※共和制とは、王などの君主でなく、人民が統治の最高決定権を持つ政体

多くの都市共和国が生まれました。

そんな中、裕福なものたちの中には
王や貴族にお金を貸す者が出現。
(銀行業が盛んに)

しかし王たちは策略でもって
銀行家の資産を没収。

それから逃れ、
最終的にローマ教皇の金融を担当
大銀行へと成長したのが
フィレンツェのメディチ家でした。

メディチ家はローマ教皇の管財人として
莫大な利益を得る一方、
フランス王やドイツ諸侯にも融資。

ただ、銀行業というと
金貸しのように聞こえますが、
当時キリスト教では金貸しは
禁止されていたので

メディチ家は ”両替商”、
そして毛織物などの “貿易商” として
利益を得ていました。
(”銀行” を表す英語 “BANK” は、両替のために使用した長机を表すイタリア語 “banco” が語源〈日銀HPより〉)

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そのメディチ家は
その後トスカーナの君主となり
また一族からローマ教皇を
二人も輩出。

そして、その財力でもって
芸術家たちをバックアップしました。

そのバックアップした芸術が
《ルネサンス芸術》

《ルネサンス芸術》とは
ざっくり言うと、
“人間ありのままの姿を表現しよう”
というもの。

つまり、ギリシャ・ローマ時代など
[古代文化における人間性の復活、
自然の再発見、個性の解放]
のことです。
※ブリタニカ百科事典より

当時フィレンツェでは
その市民の豊かさから
人間の人格と個性を尊重した風潮が
広まり、

また東ローマ帝国が衰退する中で
そこから学者や文化人がやってきて、
彼らが有していた
古代ギリシアの、さらにイスラムの
知の遺産を継承。

メディチ家の経済的な支援によって
この、
[古代文化における人間性の復活、
自然の再発見、個性の解放]
という《ルネサンス芸術》が
花開いたわけです。

そして
この《ルネサンス》はその後、
「人間が自然を支配し、
数学的な視点で物事を捉える」
考え方を生み出し、

今日の科学技術の進歩が
成されたわけです。

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と、ここまでかなり
長くなってしまったので
続きはまた次回書きます。

次回からフィレンツェの
具体的な《ルネサンス芸術》を
辿っていきます!

では!
フィレンツェのシンボルの一つ、《ジョットの鐘楼》