第18章 人生のゴールとは

89.本当の絶対的な答-1-

私たちが「心」を持って生きている意味は、こういうことです。

人生において自分に起きたあらゆる出来事は、私たちの「自立した自由な心」によって、
「自分の心」を形作る霊的な意味を持った事象に昇華されなければなりません。

私たちの人生で起きた一つ一つの事柄は、私たちの「自立した自由な心」によって、
すべて意味のある事柄へと再創造されなければならないのです。

そうしないと人生で起きてきた事柄は、意味のない事柄になってしまいます。
そのようにしてしまった先では、「自分の人生なんて意味がない」というような人生に対する絶望感が生まれてしまうのです。

つまり「意味のある人生」とは、私たちが私たちの「自立した自由な心」で、自分の人生で起きた一つ一つの出来事に対して、
霊的な意味付けをすることができるかにかかっているのです。

霊的な意味付けというのは、最初の段階では、その出来事によってまず自分の「心」を成長させることです。
その出来事があったからこそ、自分の「心」にこのような深さ、奥行き、広さができたと言えるような実りがなければなりません。

そして次の段階で、その深く、広く、大きく成長した「心」で、
あらためてその出来事を霊的に意味ある事象として認めてあげなければならないのです。

そうすることで、あなたの「心」によってこの宇宙のすべての事象が、霊的に意味のあるものとして最後の完成形に昇華するのです。

これが、人間がこの宇宙に生み出された被造物でありながら、創造主の立場にもあるということなのです。

宇宙を完成させる最後の創造力を持っているのが私たち人間の「心」であって、
私たちが「心」を持って生きている意味は、宇宙を完成させる使命を持っているということなのです。

私たち人間は、この世界がどうなっているかという受け身の存在であるのではなく、
この世界を正しく創造することができる創造力を持っていて、世界を正しく創造しようという能動的な思いを持った存在なのです。

ところが人間はそのような自己の存在の意味を見失いました。
そして無知に陥り受け身な人生を送って、本来の創造力を発揮できないまま人生を終えてしまっているのです。
だからこの世界は、私たち人間の心が納得できない矛盾に満ちたままで存在しているのです。



人間の存在に関して、生命の根本的な問題である男女の性行為に関して考えてみましょう。
多くの宗教で、性行為は罪悪な行為とされ、修道者は肉欲を遠ざけているべきだとされてきました。
宗教だけでなく、普通の人間社会でも性行為は恥ずかしいものとされ、少なくとも人前にさらすべきものではないし、
そのような話をする時には人間の心は多少の罪悪感を感じてしまいます。

しかし、その社会的に宗教的に罪悪感を持たれている性行為なくしては、人間は誰も存在しないのです。

このことは、いかに人間は自分の存在の根幹に感して無知であるかを示しています。
そして真理を追究してきたはずのどの宗教においても、このことに明確な答を出していないということになります。

宇宙の存在と自分の存在の根本を知らないで、人間の生き方だとか社会のあり方だとかを、人類はずっと悩み続けてきたのです。
しかし今も人類は闘争の歴史を続け、この世界から犯罪も戦争も差別も憎しみ合うこともなくなりません。
私たちの心が望まない出来事が日々繰り返され、人類全体が幸福となれる理想の世界は実現できていません。

人類がこれまで出してきた「答」はどれも、「本当の絶対的な答」になっていなかったということです。

そしてその「本当の絶対的な答」にたどり着けない一番の原因は、あなたの「心」が「答」を求めていないということなのです。
人間の「心」は「自立した自由な心」なので、あなたの「心」が「本当の絶対的な答」を得ようと求めなければ、
一生涯その「答」にたどり着けないまま、人生は終わってしまうのです。


その観点で、あの「ぶどう園」の話を考えてほしいのです。

あの出来事において、問題の本質は何なのでしょうか。
何が問題なのかが分からなければ、「本当の絶対的な答」を出すことはできません。
私たちは、問題の根本を見極めることができないまま、対処療法的な答を出し続けてきたのです。

「夜明けから働いた労働者」の立場に立てば、ほとんどの人がこれは「お金」の問題だと考えるのです。
そういう人の心は、「お金が人間の問題を解決する」という思いが、その人の心を支配しているのです。

人は自分の自由な心・自由意志で、自分の考えを生み出していると思い込んでいます。
しかし、これは本当の「自立した自由な心」ではありません。

本当の「自立した自由な心」から生み出された「本当の思い」ではないから、その思いの先に築かれた人間の社会は本物ではないのです。

「お金で人間の問題はほとんど解決できる。」、そんな思いが心を占めているのは、心が自由でなくなっているからです。
そしてそのような誤った思いを生み出させているのは、この世界に見えない心霊の世界があって、その心霊の世界の中に悪い霊があるからです。
この悪霊の影響とか束縛の中に人間の心があるので、間違った答を生み出してしまうのです。

やや宗教的な話に入り込みすぎましたが、少なくとも「お金」が答ではないことだけは理解しなければ前に進めません。

「お金」が答だと思えてしまうのが、あなたの心を束縛している固定概念なのです。


何を言っているのか分からないと思う人が多いと思います。

では、「お金」という答えが「本当の絶対的な答」であるなら、それでこの世界の問題は解決されるということですね。

それならば、解決方法はいたって簡単です。

「夜明けから働いた労働者」に12デナリ支払ったら、「お金」の問題は解決ですね。
それなら「夜明けから働いた労働者」は、不満をいだくことはないでしょう。
この解決方法で人間の世界の問題はすべて解決されて、世界は理想的な世界になるということです。

「お金」が、「本当の絶対的な答」であるとしたら・・・・・。


これですべての問題が解決されないだろうことは、ほとんどの人が経験的に知っていることでしょう。

例えば、後から来て短い時間しか働けなくて、1デナリしかもらえなかった労働者はどう思うでしょうか。

自分たちは冷遇されていると思わないでしょうか?

1時間しか働かなかったのだから1デナリで当然ではないかという考えは、12デナリもらった人の見方です。

1時間しかぶどう園で働けなかった人たちは、自分たちが評価されていないという寂しさを感じるでしょう。

だから、「夜明けから働いた労働者」に12デナリ支払うという「お金」での解決は、
ぶどう園という世界に共に生きたすべて人々が納得できて、
みんなが幸福と感じられる「本当の絶対的な答」にはなっていないということです。

マルクスは、「時間」を答にもってきました。

これは、「お金」を答とするのと同じ結果になるのですが、
「お金」を支給する前の段階に、たとえば1時間で1デナリという計算式を入れるわけです。

そうすると、計算上の「平等」という大前提が、「ぶどう園での労働」という出来事にラベル付けされることになります。

しかし人間の「心」は同じですから、どのように理屈付けしようと、納得できない思いとか、評価されていない寂しさとか、
愛されていない苦しみは沸いてくるのです。

「お金」も「時間」も、「本当の絶対的な答」ではないからです。

だから、資本主義も共産主義も失敗しているんです。


この「手紙」で、人間の「心」が変わらなければ、絶対に世界は変わらないと断言してきました。

ぶどう園の主人が「夜明けから働いた労働者」に12デナリ支払ったとしたら、確かに彼らの不満は生まれなかったでしょう。
しかしそうだとしたら、この出来事を通して、「夜明けから働いた労働者」の「心」は何も変わらないままになってしまいます。

「夜明けから働いた労働者」の「心」が変わっていないのなら、このぶどう園の1日の人生は納得して終わったかもしれませんが、
別の仕事とか他の何かの出来事で、自分が損をしたと思える状況になった時には、同じように不満な思いが出てくるはずです。

すなわち「お金」でこの場の問題を解決することは、「夜明けから働いた労働者」の「心」の問題を解決することにはならず、
その問題の解決は先送りされただけであり、さらに一生先送りし続けたとしたら、
彼は「本当の絶対的な答」を出せないまま人生を終えてしまうのです。

それは、せっかく命を与えられてこの世に生まれてきたのに、本当の人生を生きることなく生涯を終えるということになるのです。


このことが分かったら、以下のように考えが変わるはずです。


今までの私たちの考えはこうです。

「神がいるなら、なぜ自分の人生はこんなに辛いのだろう。」
「神がいるなら、なんでこの世界には理不尽なことが多いのだろうか。」
「神がいるなら、なぜ私の願いをかなえてくれないのだろうか。」


そして、正しい「心」のあり方はこうです。

「私の心を苦しませるこのような出来事が私に起きるのは、私の心が本物になるための神の愛である。」

「この世界に理不尽があるからこそ、それに対する時に私たちの心に苦しみが生じるのだ。
 痛みを知ることで自分の心の病んでいることに気付くことができる。
 この世の理不尽も、神の愛なのである。」

「神が私の願いに応えてくれたので、ぶどう園の主人は私に12デナリを与えてくれた。
 そしてその後も私は、自分の思い通りにならないことが起きる度に、神に自分の思い通りの結果を訴え求め続けた。
 私の人生は自己中心的なものとなり自分の思いは満たされていったが、私の回りの人間は決して幸福ではなかった。
 私の生きている間において、自分だけが幸せであることを求め続けたが、この世界は真に幸福な世界にはならなかった。
 結局、真に幸福ではない矛盾した悪に満ちた世界に生き続けることで、自分の人生は幸福に満ちたものとはならなかった。

 私が生まれ変わることができたなら、私の自己中心な願いを求めていくのではなく、
 人生の出来事を通して、神が私の心に対して願っているものを見つけていく生き方をしたいと思っている。」