私は、「ムーン」。

時が満ちてきたようだ。「真理」の核心に迫っていく時である。

「サンじいさん」の「手紙」に、一つのたとえ話が書かれていた。
「聖書」に書かれている、イエス・キリストという人物が語った話だそうである。

「サンじいさん」は、親友になったキャラバン隊の「ミカエル」から「聖書」の存在を教えてもらい、彼から1冊の「聖書」をもらったそうだ。

「サンじいさん」は他のどんな書物よりも「聖書」に心が惹かれたようで、そこに書かれている内容を探究したそうである。

その中でも特にこのたとえ話に強く興味を持ち、それに関しての「サンじいさん」の見解がたくさん残されていた。

まず、その「聖書」のたとえ話をここに記載しておこう。

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 「マタイによる福音書」の第20章

 ぶどう園の主人が、労働者を雇って夜明けからぶどう園で働かせた。
 彼らには、1日1デナリの給料を払うと約束していた。

 その後午前9時に市場で仕事がない者を見つけたので、彼らもぶどう園に行かせて働かせた。

 さらに、昼の12時、午後の3時、夕方の5時にも、それぞれ仕事がない者たちを見つけてはぶどう園で働かせた。

 日が落ちて仕事が終了すると、彼らに給料を支払った。
 まず最後の夕方5時に来た者たちに1デナリずつ支払った。
 その後、3時に来た者たち、12時に来た者たちにも1デナリずつ支払った。

 そして最初から働いていた者たちにも1デナリを支払ったところ、彼らは自分たちはもっと多くもらえると思っていたので、主人に不平をいった。

「自分たちは1日中働いたのに、最後に来て1時間しか働いていない者たちと同じ1デナリしかもらえないのはおかしい」

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「サンじいさん」もこの話を読んだ時、最初は意味がまったく分からなかったと書いている。

『おそらく、ほとんどの人がこの話に何の意味があるのかと思うことだろう。まったく私もそうであった。
この話は、ぶどう園の主人が畑仕事の労働者を探して、自分の畑で働かせて、最後に賃金のことでその労働者ともめた、ただそれだけの話である。いったい何の意味があるのだ。

次に私が思ったのが、最初から働いていた労働者が不平を言ったのはもっともではないかということだ。
どう考えてみても、彼らは最後に来た労働者よりも10倍以上の時間は働いているのだから、賃金が同じというのは納得ができない。

そうなると、このたとえ話はますます何を言いたいのか、意味不明である。』


「サンじいさん」は、意味不明なこのたとえ話をずっと「心」に置いていたようである。
そしてある時、大切なことに気付いたのだ。
そのきっかけになったのが、「サンじいさん」がずっと探究していた「村の車」のことだったのだ。

『私は長い間、「村の車」に関して疑問を持ち続けていた。
「村」でずっと「車」はこういうものだと思われ続けてきたことに、疑問を抱いたのだ。
それは正しいと信じられていた「村人の考え」に、そうではないのではないかという否定の考えを持つことであった。

そういう今までとは異なる「考え」を持つことで、自分には本来の「車」の姿が見えるようになってきたのだ。

そのことを、この「聖書」のたとえ話に当てはめてみた。

もしかすると今までの自分の「考え」、自分の「心」では、この話の本当の意味が見えないということではないのか。』

この「サンじいさん」の話を読んだ時、私の頭に「受信機が壊れているということか」、という言葉が走った。

このたとえ話は重要なメッセージを発信しているはずなのだが、私たちの「心」という「受信機」が壊れているので、
そのメッセージを正しく受信できず、意味不明な信号に見えているのでは、と思えたのだ。

その後の「サンじいさん」の話には、今自分が思いついたことと同じことが書かれていた。

『自分が「車」の正しいあり方を見つけ出せたのは、最初に「村の車」は壊れているのではないかと疑問に思ったからだ。
疑問に思ったからこそ、「車」を調べて、今の「車」の状態を否定して、そこから本当の「車」のあり方を想像していくことができたのだ。

このたとえ話が分からないということは、受けとめることができない自分の今の「心」を否定して、自分の「心」がどうであればこのたとえ話が納得できるのかを考えてみなければならないだろう。

それはまさに、「車」がどうであればいいのかを考えてきたプロセスと同じである。』


さあ、この「手紙」の読者のみなさん。

ここでようやく、なぜ「村の車」という架空の話を長々と書いてきたのか、少し意味が分かってきましたね。

「サンじいさん」の話の続きの重要な部分を1つと、それに対して私(ムーン)が今一番重要に考えていることをこの後に書いて、この章を完了しようと思います。

まず、「サンじいさん」の話から。

『たとえ話の中で、一番気がかりなのは、やはり最初から働いて主人に不平を言った労働者だ。
彼の「心」の中でドラブルがおこっていることは明白だが、それをどのように理解すべきなのか、私にはまったく分からない。

私の「心」は、もし私が最初から働いた労働者と同じ立場にたったら、私も同じ感情になるだろうと感じている。
つまり、彼らの感情に共感してしまっているのだ。それ以上、どのように考えていいのか分からない。

おそらく私がここで行き詰ってしまうということが、私の「心」が壊れているからなのかもしれない。

もし私の「心」が「正しい心」であるならば、ここに「答」を出せるということになるのかもしれない。

もしそうであるならば、今の自分の「壊れている心」で考え続けても、「正しい答」は出せないということである。

だが、思い出してほしい。

「村の車」の時も、私の目の前にあったのは「壊れた車」だけであった。
それでも、「壊れた車」を調べて調べて、そこから「正しい車のあり方」を考えて考えて考え続けていくうちに、私の「心」に、「正しい車の完成形」が見えてきたのだ。

それは、どこが間違っていて、どうあるのが正解なのかを、自分の「心」に刻んでいく作業であった。

「車」と同じようにこの「たとえ話」に向き合うとするなら、まずは最初から働いた労働者が主人に不平を言ったことは当然だと思ってしまう、その自分の「心」に疑問を投げ掛けなければならない。

そしてこの問題の完全な「答」と、それを「答」と受け入れられるには、自分の「心」がどうならなければならないのかを見出さなければならないだろう。
「答」は、提示されただけではダメなんだ。
人間の「心」がそれを「答」と受け止めてはじめて、「本当の答」になるのだよ。

「車」を直した時に、「直した車」こそ正しい状態だと人々に認めさせなければ、村人の「心」の中に「真の車」の姿は根付かないでしょう。
  
私は、今まで自分が乗ってきた人生という「バス」から降りて、全く別の方向に一歩踏み出したような気持ちになった。』


ここまでが「サンじいさん」の話だが、私(ムーン)には衝撃的な内容だった。
それでも最初から私の「心」に深く染み込んだわけではない。

何度も読み返し、長い時間考えていくうちに、その意味が深く「心」に入っていくようだった。
でも自分もまだ、「サンじいさん」のレベルまで理解が深まってはいないと思う。
  
「サンじいさん」の話の最後の方に、「サンじいさんの手紙」を読んだ者へのメッセージがあった。

それは、「サンじいさんの手紙」を読んだ者は、この世界を変え、人間を変えていく使命があるということだった。
そしてその使命を持った者は、必ず現実の世界で「夜明けから働いた労働者」と向き合うことになるだろうという
予言のような内容だった。

これを読んだ瞬間、私(ムーン)の脳裏に「マーズ」のことが浮かんだ。

なぜなら彼こそ、私と共に働き始めた最初の人物であるからだ。

ということは、私はいつか「マーズ」と何らかの形で対峙する時がくるのかもしれない。

そしてその前に私自身の「心」の準備を命がけでやらなければならないだろうと、覚悟と決意をしたのだ。