私は、「マーズ」。

「アース」が加わって、私たちのチームは4人になりました。
「ヴィーナス」も「アース」も、私がチームのリーダーであるように見ていますが、
私は「ムーン」こそが、私たちを導く中心人物になるのだろうと感じていました。


その理由は、まったく明白です。
それは、私が「真実の答」を見出せていないからです。

「ヴィーナス」も「アース」も、私が世界と人間に関する本質的な問題を深く究明してきたと思っています。
それは確かに間違いありません。
幼いころから私は、この世界の存在や人間の存在、そして自分とは何か、自分の心はなぜ存在しているのか、
そのような根本の疑問を深く考え続けてきました。

しかし、私は「真実の答」を見つけ出せていません。
それどころか、疑問が深まるばかりで、ずっと悩み続けて生きてきたのです。

私が今、私に関するこの根本の問題を直視せずに、さも自分が分かったようなふりをして何かをやったとしても、
その結果は絶対に「真実の答」とはなりえないでしょう。

私は、ただ「この宇宙の存在と自分の心の存在の真実」を知りたいのだ。
そして知るだけではなく、自分はあるべき真実な自分になりたいし、世界も真実なものとなってほしい。
そしてその本来の世界で本当の自分で人生を生きたいのだ。

その根本の思いに立ってみたら、「真実の答」を見出せていない自分が先頭に立つわけにはいかない。
そんな自分が人から持ち上げられて、人々の上に立ったとしても、本来の目的の「真実な世界」の実現は不可能である。

人間は自分が他人よりも上に立つことを求める。
求めていることは自分が上に立つことで、人々から自分が評価されているという満足感である。
それはもっと明確に言えば、人は他人から愛されたいだけであり、上の地位に立つことは自分が認められることだから、
愛されたいという欲望を満足させているだけなのだ。

それを「悪」とは言わないが、本当の目的はそこにはない。
少なくとも私が求めている「本当の答」は、そこにはない。


私たち人間の生涯は、ほとんど「間違った答」の追求に人生の限られた時間を費やし、
そして間違った人生を生きて、間違ったまま死んでいっているのだろう。

私ですら、「間違った答」への誘惑に負けてしまうかもしれない。

「ムーン」には私にはない特別な何かが、生まれながらに与えられているように感じるのだ。

今私が言えることは、私の本心は「正しい答」を求め、「正しい人生」を生きたいと願っている。
そして、「正しい答」に出会えたならば、今までの自分の考えを捨てて、その「答」を受け入れようと思っている。

これは、今「村」で起きている「車」に対する問題と同じなのである。
村人たちが、これまでの「車」に対する固定概念を捨てて、新しい「車」のあり方を受け入れられるかという問題であり、
それは「車」の問題ではなくて、人々の「心」の問題に帰結するのである。


新しい考えを受け入れる人もいるだろうが、受け入れることができない人もいるだろう。
特に長老たちはなかなか受け入れられないだろう。

それを考えれば、私も「正しい答」に出会った時に、本当に受け入れられるのかといえば、
こんなに「真実の答」を追求してきた私でさえも、絶対にそうなるとは言えないだろう。

必ず「間違った答への誘惑」が来るはずである。


私たちが「間違った答」へと誘惑されるのは、私たちの「心」の根底に、「間違った答」に相対してしまう「間違った心」があるからだ。
「車」に故障の箇所があるように、私たちの「心」に「エラー状態の部分」があるのである。

その「エラー状態の心」は、長老たちが「自分たちが認められている立場」を守ろうとするのと同じ「心」であるだろう。
「自分が認められる」、すなわち「自分が愛されたい」という「心」が、私たちを「間違った答」へと引きずり込むのだ。

今、私は冷静にこのような分析をしているが、自分がまさにこのような感情の渦の中にはまっていったとしたら、
おそらく私も「本当の答」を受け入れることに、「心」の葛藤が生まれてくるだろう。

そして、その「心」の葛藤を生み出す相手は、「ムーン」になるのだと確信している。
なぜなら「ムーン」こそが「正しい答」を持って、私の前に現れるはずだからである。
そして、その「正しい答」との「心」の葛藤こそ、「真理への道」への真実な戦いになるはずだからである。

そこまで分かっていても、自分が失敗して、「ムーン」と対立することになる可能性は十分あるのだ。

ただこの戦いの勝敗のカギを握っているのは、「ムーン」である。

後は、「ムーン」にゆだねるとしよう。

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私は、「ムーン」。

私たちのチームは「アース」が加わって4人になったが、私たちの計画の実行のためには、少なくとも10人以上の
仲間が必要である。

私は、「マーズ」と話し合いながら、仲間に加わってくれそうな人物を探した。
「アース」のように、「マーズ」を尊敬している若者がたくさんいたので、多くはその中の人物が候補となった。

一方で、残り9台の「車」を修理するプロジェクトの準備を進めなければならないのだが、
これは、「マーズ」と「ヴィーナス」と「アース」の3人に任せた。
それは「マーズ」が私に、私にはもっとこの先のことを考えてほしいと言ってくれたからである。

「マーズ」はうすうす気付いているのだと思う。
私は、「サンじいさん」から重大な使命を託されていたのだ。

「サンじいさん」の手紙は、「車」に関することだけではなかったのだ。

もっと重要な事が書かれていた。
それは「村」の問題の真の解明であり、その解決への「真理の道」であった。

「サンじいさん」は、「車」の問題点を追求し続けた結果、問題の核心が「村」の人々の「心」のなかにある
「固定概念」にあることに気付いたのだ。

「車」の直し方を追求する中で、本当の「村」の問題の解決とは、人々の「固定概念」を直すことだと悟っていった。

そして、これは「村」だけの問題ではない。
「村」の外の世界も含めた、この「世界」全体の問題であり、人類全体の問題であり、「宇宙」の存在、
そしてすべての「歴史」の問題でもあると感じ取っていったそうである。

「サンじいさん」が解き明かした、「真理の書」がそこにはあったのだ。

そしてこの「書」は、第一発見者の者が責任を持って所有し、その内容を完遂してほしいとの「願い」が書かれていたのだ。

自分は選ばれて、その第一発見者となってしまったのだ。


自分に与えられている時間は、永遠ではない。
限られた人生の時間の中で、第一発見者としての自分の使命を果たさなければならない。

「サンじいさん」の「真理の書」を理解し、そこに書かれていることをこの世界に実体化することが、私の使命である。
回り道をしている余裕はないだろう。


「サンじいさん」の「真理の書」の書き出しの部分を紹介しよう。


(「サンじいさん」の「手紙」より)


私は幼い頃、まず「村」の「車」のあり方に疑問を持った。
それがすべての始まりだった。

私は成長するにつれ、「村」や「村人」たちのあり方に、説明のつかない奥深い「疑問の思い」をいだくようになっていった。
簡単に言えば、「何か違う」という「思い」だ。

それはまさに、「村」の「車」のあり方に対して抱いていった「思い」の延長線上にあったように思う。

やがて私の「思い」は、「村」や「村人」という枠を超えて、外の世界や外の人間へと向かっていった。

「村」では、「村」の外の世界に関しての情報はほとんどなかった。

私は「村」の掟(おきて)を破って、キャラバン隊の一人の青年と交流を持つようになっていった。
彼は「ミカエル」という名前で、当時のキャラバン隊では最年少のメンバーだった。

私と「ミカエル」は同い年で、不思議とお互いに惹かれ合って、友情が芽生えていったのだ。

何よりも、「世界」や「人間」の存在に対する真摯な探究心という、最も本質的なところで私たちは共感を抱けたのだ。

「ミカエル」は私に、いつも本を持ってきてくれた。

それらの本を通して、私は外の世界と人類の歴史を学ぶことができたのだ。

その結果私が悟ったことは、「村」は「世界」の縮図であり、「村人」は「人類」の縮図であるということだった。

「村」で起きている様々な問題は、「世界」で起きている問題の縮小版であって、
根本的に「全人類」は、本来の人間のあるべき姿ではなく、エラー状態で存在しているということだ。

一言で言えば、「車が壊れている」と同じことで、「人間は壊れている」ということである。

そこから私は、では「壊れている人間」を修理し、「世界」を「本来の世界」に戻すためにはどうしたらよいのか、
その「答」を探究していくこととなった。



「世界」を変えるということになるのだが、目指す新たな「世界」は「真実な答」でなければならない。

これまで人類の歴史で、どれだけの人が自分の思いの世界を作り出そうとしてきたことか。
そのためには自分が人々の上に立ち、人々に自分の思いを受け入れさせなければならなかっただろう。

では、過去の人間はどうやって人々を治めようとしてきたのか。

初期の人類は、ほとんど「力」で相手を屈服させてきただろう。
やがて「学問」などが生まれてきて、「知恵」も有効な武器となっていった。

それでもどこの国でも、封建時代までは「力」のあるものがこの「世界」を支配してきたのだ。

やがて「科学」が進歩すると、「科学力」が原始的な「暴力的力」を凌駕するようになる。
しかし、「科学力」を使って人類が作り出してきたものは、相手の武器よりもより破壊力が強い武器を作ってきたのであって、
「暴力的力」で支配・被支配を争ってきたのと動機も手段も同じである。

やがて民主的な思想が広まり、反戦平和が唱えられるようになると、それぞれの「国」の政治システムの中で、「権力」闘争が始まる。

経済では、資本主義が広まると、「金」を持ったものが強い立場となるので、人々は「金」を稼ぐことに人生を費やしていくのだ、


しかし、「力」で「権力」で「金」で「世界」を制覇しようという「思い」は、「間違った答」である。

その理由は実に簡単で、「力」で上に立った者は、反発する下の人間によって「力」で引きずり降ろされ、
「権力者」も「経済的な勝利者」も、彼が勝った武器を持って常に下の人間たちからの攻撃を受け続けるだろう。

私たちが歴史の中で偉人扱いしている人間の多くは、たまたま彼が死ぬまでに敗者になり下がらなかっただけであり、
誰も「本当の答」によって勝利し、「本当の世界」の建設に勝利していない。


私が考える新たな「世界」は、「真実な答」に根ざしていなければならない。

どこまでも「真実な答」を追い求めようという「思い」に、私が立っているかが全てである。