今でもはっきりと覚えていて

時折思い出すのが、成人式の日、式に行きたくなかった。

 

どうしてなのか、理由はわからないけど、嫌だった。

嫌だという気持ちが胸の中に渦巻いていた。

 

 

 

そういう気持ちの時、逃げ出したいと思う。

このまま行かないという選択をしたいと思う。

 

 

だけど、たいていはそのまま行動する。

 

流されて、というよりは、自分で行くと決めているんだよね。

嫌々しながらも。

 

 

 

式に行ったら、めちゃくちゃ楽しい時間が過ごせた。

 

このギャップが激しかったから、

記憶に残っているのだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、こういうことは日常的にあった。

こういう感情の起伏を事あるごとに繰り返していると思う。

 

東京に通っているときもそうだったかもしれない。

 

 

足を踏ん張り、抵抗し、引きずりながら行動する。

行動してみたら軽くなる。楽しくなる。

 

 

なんかそういうことの繰り返しというか

そういう在り方になっているのかもしれない。

 

 

 

 

そこの葛藤、苦しさ、もがき、抵抗。

もういらないかもしれない。

 

嫌な気持ち、モヤモヤ、イライラ、ブルーになる

気持ちが沈む…そういうことは勝手に起こる。

 

 

そう、勝手に起こるのだ。

 

 

それをダメだとしていたから、

切り替えよう、変えよう、楽になりたい、逃げたい。

となる。

 

 

しかし、いいのだ。ブルーなままで。

そのままで行動すればいいのだ。

 

というかそうしてきたのだ。ずっと。

 

そこを変える、克服するのではなく。

それでいいのだ、とすること。

 

 

 

 

今ここにあるブルーな気持ちが苦しいのではなく。

それをなんとかしようともがくから苦しい。

 

 

では、

それをなんとかしようとしているのは誰なのか?

どこでその思考が起こっているのか?

 

 

今まさに嫌だという気持ちを感じているのが

個の自分だとしたら、そこではない。

 

そして、魂目線でもない。

 

 

ということは…?

 

 

これはただ単に「設定」によって

自動反応で起こっている感情なのではないか?

 

 

 

心の中に嫌だという感情が起こり

モヤモヤ、イライラ、ドヨーンとなるような

黒い煙の塊のようなものが胸にある感覚。

 

それを察知すると、脳が自動的に追加の感情を送ってくる。

ダメだ、なんとかしなければ、切り替えなければ。

早く楽になりたい。

 

 

 

この時の「設定」は

 

嫌な気持ち(ブルーな気持ち)=ダメなもの

ポジティブに変換したら楽になる。

 

というもの。

 

 

だから楽になるために、切り替えなければ、

このままではダメだ、と今ある気持ちを否定し

感じていることを責め、改めよう克服しようとし、

心にさらに負荷をかけていく。

 

という自動反応が起こっている。

ただそれだけのこと。

 

 

 

 

ここで「設定」

 

嫌な気持ち(ブルーな気持ち)=ただ起こるもの。そのままでいい。

 

としてみると、その自動反応は止む。

 

 

ただ心のなかに黒い塊があるだけだ。

そのままでいると、だんたんと楽になり、塊は消えていく。

 

 

消えなくともいいのだ。

そのままでいていいのだ。

 

そのままで思うように行動すればいいのだ。

 

 

肉体は肉体として動かす。

そのときに目の前にあることを選択してするだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の一連の気持ちの流れを観察することで

「設定」がどういう作用を起こすのかが

はっきりとわかった。

 

 

ここで重要なのは、設定がどういうものか

ということではない。

 

 

それをなんとかしようとしているのは誰なのか?

どこでその思考が起こっているのか?

 

この問いを得たこと。

この目線を持てたことだと思う。

 

 

 

 

これは一体何?

 

というこの問いは

魂目線の問いだったと思う。

 

 

 

問いと同時に答えは存在する。

すべては今この瞬間にあるのだ。

 

その中から求めるものを呼び出す役割をするのが

「問い」なのだと思う。

 

 

 

こんな風にふとしたときにやってくる

魂目線での問い。

 

それが魂の求めるものへと

本当の私が求めるものへと

導いてくれるのだろうな。