神学生レツのブログ

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神学生として学んだこと、クリスチャンとして思うことを、気が向くままに書くだけのブログです。

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マタイの福音書22章1-14節
「王の披露宴のたとえ」考察メモ

 

念願のブログ初投稿。マタイの福音書から日曜礼拝で説教をする機会が与えられたので、学んだことをメモ書きしていく。

 

本文

イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
(新改訳2017)

 

文脈の確認

  • マタイの福音書を5つの説教群で分けると、22章は五番目。エルサレム入場と十字架の受難の間にある最後の部分。マタイの主題と合わせると、これは「謙遜な王」「受難するメシア」という文脈かも。
  • どの注解書を見ても、これはイエスが宗教指導者たちに語った3つのたとえの最後、「二人の息子のたとえ」「悪い農夫たちのたとえ」に続くものとして位置付けられている。3つのたとえ話の共通点はざっとこんな感じ。
    • 父、主人、王とそれに従うべき子、農夫、招待客の関係
    • 従うべきだった人が従わなかった結果として、他の者たちに与える描写
  • この箇所に続く箇所としては、「納税問答」や「復活問答」といった、これまたやはり宗教指導者たちとの対決。

 

並行箇所の確認(ルカ14:16-24)

D・A・カーソンによるとこんな感じらしい。

 

・ルカでは "ある人"、マタイでは "ある王 "にまつわる話。
・ルカでは大晩餐会、マタイでは王の息子の婚礼宴会。
・ルカでは1回、マタイでは2回の招待がある。
・ルカでは招待客は言い訳をするが、マタイでは拒否してしもべに暴力をふるう。
・ルカでは、招かれた客は見過ごされ、マタイでは滅ぼされる。

 

※『トマスの福音書』にも同じ話があるんだって。知らんけど。

 

マタイとルカどっちが先に書かれたか、そもそも違う話かどうかは結局よくわからんけど、それぞれの設定の中で解釈するのがいんじゃね、みたいなこと言ってる。

 

たとえ話と寓話

ゴードン・フィー(『聖書を正しく読むために』8章)によると、たとえ話と寓話って別なんだって。寓話ってのが、アウグスティヌスが「良いサマリア人」のたとえでやった「エルサレムからエリコに下る人」=「天から堕落したアダム」で「宿の主人」=「パウロ」みたいな感じ。たとえ話のこれはこれを指している的なね。

 

それに対してたとえ話ってのが、ジョークみたいに、それが種明かしされないで解釈されることを期待されるコミュニケーションなんだって。(説明むずいな。)たとえば、お笑い番組で笑いどころをいちいち説明しないといけなかったら興醒めするみたいに、たとえ話もそんな種明かしされない「中心ポイント」があるみたい。彼が例に挙げていたのは、「良きサマリア人」の中心ポイントは「道で倒れていた人のそばを祭司、レビ人ときて、次にサマリヤ人を登場させることで、パリサイ人の彼らへの軽蔑的な態度を明らかにした」ということらしい。だから、このたとえ話は「良きサマリア人のようになりましょう」とか言う話ではなく、「隣人を愛するどうこうを語る以前に、お前のサマリア人(ないし祭司、レビ人)へのひどい軽蔑をどうにかせい」というのがポイントなんだって。

 

ただこのたとえ話と寓話っていうのを完全に分けることができないのもある。イエス様だって「種を蒔く人」のたとえとか思いっきり寓話的解釈だよって教えてる。(「道端に蒔かれたもの」は悟らない人で、「岩地に蒔かれたもの」が根がない人のことだよ、みたいに。)だからジョーク的なたとえと寓話の境界線を見分けるのも一苦労かも。

 

このマタイの箇所では、寓話的要素が強めっていろんな注解書にかかれている。たしかに、招待を拒否して滅ぼされる町とか、ローマに滅ぼされるイスラエルって感じするよね。でも、どの部分にまで意味があって、どこまでいくと読み込みすぎなのかの境界線は依然として課題ではある。特に後半の「礼服」のところの解釈でね…

 

疑問点

  • ポイントがいまいちつかめん。「御国の宴を断って、伝えにきたしもべ(バプテスマのヨハネかな)を殺しさえするお前ら!」ということ?その後で大通りで出会った人たちをみんな招いたのは、寓話的に異邦人への救いってこと?
     
  • 「礼服を持ってないで外に放り出される人」が特にわからん。「礼服を持っている(持っていない)」ということが何を意味する?
     
  • 最後の14節とたとえ話の関連も謎。「結局選ばれていないダメ」ってこと?

 

解釈の方向性

  • 前半:
    御国の福音をあからさまに拒否し、ふさわしくないため滅ぼされる人たち
    後半:
    御国の福音に招かれたけど、それにふさわしく用意せずに追い出される人たち

    この線でいこうかなー。
     
  • 当時の意味(マタイの文脈)として
    御国の福音に公然と反発し、自らを神の国にふさわしくないものとしたユダヤ人たちを描くとともに、その後招かれた者の中で御国にふさわしい応答をしなかったことで追い出される人を描くことで、御国にふさわしい行動を取るように警鐘を鳴らしている。
     
  • メッセージにつながる普遍的な意味として
    御国の福音に公然と反発し、自らを神の国にふさわしくないものとした人たちを描くとともに、その後招かれた者の中で御国にふさわしい応答をしなかったことで追い出される人を描くことで、御国にふさわしい行動を取るように警鐘を鳴らしている。
    「ユダヤ人たち」を「人たち」にしただけ。

    この線でがんばるかー。