この町の商店街が無くなったのは、スーパーマーケットが出来たからと思っていたが、商店街の衰退だけでなく、町の変遷にはもっと大きな原因があるような気がしてきた。
今から40年以上前は、商店街は繁盛していたし、名古屋港あたりの工場や瑞穂区から熱田区に至る工場にも、多くの従業員が通っていた。名古屋の工場地帯も焼け跡から復興し、軍需産業はやめて平和産業を始めたわけだ。名古屋港に通じる市電は朝夕満員だったし、工場帰りの従業員を目当ての屋台もあちこちで見かけた。
さて、当時は入国が難しかったのか外国人労働者は全くと言っていいほど、見かけなかった。
もし、外国から安価な人件費の労働者が入ってきていたら、工場は海外に移転しなかったかも知れない。
しかし、外国人労働者が低賃金で働くようになったら仕事を奪われる不安で、日本人労働者に不満が広がったのかも知れない。
まだ、米の配給制が存続していて、やっと食料が行き渡るようになったころだったから、仕事があるのが本当にありがたい時代だったので、外国人との仕事の奪い合いも絵空事ではなかっただろう。
だが結局は、工場が海外に移転して、工員は職をなくした。工場が移転するのは、外国の低賃金が目当てだったのだから、管理職以下の工員は不要だったのだ。
名古屋市瑞穂区堀田近隣には、ブラザー工業、愛知時計や三菱関連の工場がたくさんあった。中でもブラザー工業は大きな敷地を有していたので、その工場が海外移転してからは、市電の混雑もなくなり、町は徐々に活気をなくした。
日本中の大企業、中小企業が工場を海外に移転したのだ。
移転して低賃金の労働力を確保して、企業は利益を出した。現地の工場法人それに日本の本社は安泰だったろうが、工場が無くなった日本社会は少しづつ変貌、衰退していった。
海外の低賃金労働力は、今でも日本にとって魅力的なものだろうか?政府はここに来ても中小企業の海外進出を奨励しているが、海外の工場が事件や事故に巻き込まれることだけではなく・・・・・日本社会への二次的な影響も深刻と思う。
写真は、天津爆発事故

