献血

 

私は献血カードを持っている。

献血ルームのある地域に出向いたときや

職場に献血バスが来ている時には

割と積極的に献血をしていた。

 

大病を患ったこともなく

大きな怪我をしたこともない。

持病もない。

 

健康体である私にとって

苦もなく気軽にできる

社会貢献の一つだ。

 

気が向いた時に

フラッと足を向けるだけでいい。

 

献血で血液を取られても

通常の生活をしていれば

新しく造血されるし

新鮮な(?)血液が体に循環していくのは

私にとっても望ましいこと。

 

しかも準備も資金もいらない。

 

私が提供できるもの

それを必要としている人がいるのなら

喜んで提供しようじゃないか。

 

一石二鳥とはこのことだ。

 

そうやって取り組んでいた献血だが

いざ自分が輸血される側になってみると

見える景色はガラリと変わった。

 

治療を望まないから輸血をしない。

これも1つの理由ではあるけれど

もっと大きく輸血を拒む理由がある。

 

他人の血液が

自分の体内に侵入してくる。

 

それが堪らなく気色悪い

 

他人の血が自分の体内に入り込む。

自分とは異質なものが混ざり込む。

 

なんとも言えない悍ましさがある。

 

もちろん

私は肉も魚も食べるので

他の生き物の血液を体内に摂り込んでいる。

 

それと何が違うのか。

と言われれば

きちんとした説明は出来ない。

 

肉や魚を食べることも

輸血をすることも

「生きる」ための行為であることに違いは無い。

 

むしろ

異なる種族の血液を摂取することに

抵抗がないことの方がおかしいのではないかと

突っ込まれたら返す言葉もない。

 

ただ、なんと言うか。

漠然と嫌。

表現し難い嫌悪感がある。

 

担当医や看護師、姉にもこのことを伝えたが

ピンと来ていないようだった。

逆に何がそんなに嫌なのかを

とても不思議がっていた。

 

これは私だけが感じるものなのだろうか?

 

ただ1つ言えることは

この先私が献血する事は2度とない

と言うこと。

 

準備も資金もいらなくて

気軽に差し出すことができるから。

と言う理由で

私自身が欲しいとは思わないものを

提供していたわけだ。

 

そのチグハグさも気持ち悪かった。

そもそも私の行動が矛盾しているんだ。

ということに気付かされた。

 

 

 

結論

 

仕事を請け負っている

2つの契約先に

入院したことを連絡しなければならない。

 

2日後にMRI検査の予約を入れたと

担当医から説明があった。

少なくとも3日間は入院確定というわけだ。

事実上仕事はできまい。

手元にPCもない。

 

1つの契約先からは

ゆっくり養生するように返事が来た。

 

予想通りの当たり障りの無い言葉。

 

「お大事に」

「無理しないで」

「治療に専念して」

「こちらのことは気にしなくてよいから」

 

おそらく私を含めた大抵の人は

こう言った言葉をかけることと思う。

この契約先も同じだ。

 

目の前にある「病気」をなんとかすることに

焦点が定まる。

 

治療に専念することを

最優先にして欲しいという

気遣いからくる言葉なのだと思う。

 

けれど社交辞令として発せされる響きを

拭い去る事はできない。

 

本心ではあるだろうけれど

薄っぺらさを感じる言葉たち。

 

そして逆の立場であったのならば

私も同じ言葉を使うだろう

その気色の悪さ。

 

もう1つの契約先からは

復帰に向けて準備を整えてくれと返事が来た。

 

復帰」が前提になっている。

 

もちろん、

先の契約先としても復帰が前提にあったかも知れない。

けれど

目の前にある出来事

その先にある未来

どちらを語るかで

こんなにも印象が異なるものなのだと

おかしな感動を覚えた。

 

それは私の存在に対して

肯定的な言葉であるように思えた。

 

一歩先の未来を見据えた言葉を受けて

復帰に向けての行動を取る必要があるように感じられた。

 

私はまだ

この人の役に立てていない。

 

そういえば

私が今いなくなったら

ここの契約先は打撃を受ける。

私だけが担っている業務があった。

そうだった。

忘れていた。

とても視野が狭くなっていた。

いけない。

 

どこまで被害が拡大するかわからない。

想像したらゾッとした。

 

手術するかどうかは別として

退院するためには

少なくとも輸血をして

貧血を解消しなければならない。

 

私はまだ

死ぬ準備が整っていない。

 

輸血を受け入れることにした。