美女と野獣の実写映画、2回鑑賞したのでアニメ版と併せての語りです。
実写版のネタバレもあるので、嫌な人は戻ってください。
①ベルと野獣は異質なもの同士
本の虫と呼ばれるほど読書を愛するベルは町中の人々から「変わり者」扱いされています。
昔は読み書き出来る事は当たり前ではなく、特に女性は「読み書きや勉強は必要ない。生意気だ。」という風潮があり、小説を読む女性は精神病者扱いされるほどでした。
この女性差別な時代を表した描写は実写では強調されており、「朝の風景」のシーンのベルに対する民衆の見方を歌った歌詞はより辛辣なものになっており、少女に読み書きを教えようとしていたベルと学校の校長が揉めるシーンもあります。
ベルは現代で意味する「変わり者」よりも、もっと異質な存在であり、そんな彼女を受け入れてくれるのは父モーリスだけでした。
実写ではモーリスが「おまえの母親も時代の先を行く女性で、パリでは皆が変わり者扱いしたが、やがて皆が彼女の真似をするようになった。」と話すシーンが追加されており、アニメでは描かれなかった母の存在との関係が出てくるのが良いアレンジだと思います。
一方、野獣の姿にされてしまった王子は文字通りの異質な存在です。
魔女に、我儘さと他人への思いやりの無さを見抜かれて野獣に変えられ、献身的な使用人達に囲まれながらも孤独で、希望を見いだせない野獣。
アニメでは序盤は四足歩行しているシーンがありますが、ベルと出会い、心を通わせてからはそのような行動はなくなりました。
魔女の呪いは姿を変えただけでなく、バラの花が散るごとに人間性も失っていくのではないかと考えられます。
異質だった野獣はベルと出会い、愛する事を知って人間性を取り戻していったのです。
②野獣とガストン
ベルに恋をする二人の男、野獣とガストン。
単に、「外見が醜いけど心が美しい者」と「外見が美しいけど心が醜い者」といった安易な比較ではありません。
言ってしまえば「外見は美しかったが、思いやりがなく姿を変えられた者」と「外見は美しいが、自分しか愛せない傲慢な者」と、もっと複雑です。では、両者の違いは何なのでしょうか。
ベルに恋をして求婚するガストンですが、彼が愛しているのはベルではなく「町一番の美女」、つまり「美女が似合う自分自身」です。
彼に惚れている三人娘には目もくれず、ベルを追うのは「難易度の高い獲物を追う方が面白いから」です。
そして自身の気持ちをぶつけるばかりで、ベルの異質さや彼女の気持ちを受け入れてはおらず、アニメでは「女に本を読ますなんて」と彼女の本を取り上げて水たまりに投げるわ、父の身柄を楯に結婚を迫るわ、実写ではベルが自分を頼るように仕向けるためにモーリスを狼の餌にしようと森に放置する悪質さです。
そして民衆の異質なものへの恐怖を煽り、野獣を殺しに城に向かうのは「異質なものを排除して町を救うため」ではなく「美しい自分ではなく醜い野獣に心を開き、プライドを傷つけたベルへの怒り」と「野獣への嫉妬」によるものです。
彼はベルが野獣をどう想っているのかを悟ったのでしょう。
そして自分がいかに町の民衆に影響力があるかを知っています。
民衆に慕われている自分がモーリスを狂人だと言えば、彼を町から追い出し病院送りにできる=父を人質にベルに結婚を迫れる事、
民衆に慕われている自分が野獣の恐ろしさを説いて民衆の不安を煽り、彼を殺す大義を得れば民衆も付いてくる事を知っています。
ただの自惚れで傲慢な男ではない、この狡猾さと恐ろしさがガストンの悪役としての魅力と迫力を高めます。
勇敢で男らしい力自慢の美男子で、町中の男女誰もが憧れる存在ですが、彼は自分以外の誰かを愛する事を知らないまま、傲慢さと残酷さを加速させて破滅に向かってしまうのです。
野獣は魔女の前で思いやりの無さを露呈させてしまったために姿を変えられたのですが、荒々しく我儘でありながらも使用人達のアドバイスを聞く素直さはあります。まさに使用人達は親代わりなのでしょう。
実写では「野獣王子が幼い頃に母を亡くし、厳しすぎる父に育てられた時に何もしてやらなかった。」という後悔が見えます。
親心のような気持ちで幼い頃から野獣を見ているので、誰1人として連帯責任で姿を家具にされた事を恨みもせずに優しく見守っているのでしょう。
カッとなりやすい性格ですが、アニメではベルに父と別れも言わせてくれなかった事を責められると気まずそうな表情をしてみたり、実に素直。野獣の熱しやすい我儘さは子供の我儘さのように感じます。
ベルが本を好きだと知れば、自分は字が読めなくても何故本など好きなのかと変な顔もせずに図書室ごと贈ります。
ガストンや町の民衆のように「女性が本を読む事」に難色を示したりはしません。
ただ、喜ばせたいがためにとても素直です。
③なぜ二人は愛し合ったのか。
異質同士のベルと野獣。
お互いはお互いに、その異質さを受け入れてくれた存在なのです。
父の身代わりの囚人という最悪な印象の出会い方をしたのに、なぜ二人は愛に発展したのか。
野獣がベルを命懸けで狼から守り、ベルが怪我の手当てをした事はきっかけではありますが、直接的な要因ではありません。
助けてもらったから愛したというような短絡的なものではないのです。
助けられてからもベルは「あなたが脅かしたから逃げたのよ!」「すぐカッとなるのがいけないのよ!」と彼の短所を指摘し、堂々と意見を言っています。一方で助けてくれた事にお礼も言っています。
これは二人の関係が対等なものになるきっかけだと思います。
その後は先述の通り、野獣はベルを喜ばせたい素直な気持ちで図書室を贈ります。
実写ではお互いにシェークスピア作品を読んだという共通点があり、作品の好みこそ合いませんが、もっとたくさん読むものがあると図書室に案内し、彼女が喜ぶと図書室ごと贈っています。
本が好きなベルを変わり者扱いせずに異質なベルを受け入れてくれて、ベルの美貌だけでなく優しさや知性を見つめてくれた野獣は、ベルが望んでいた新しい世界を広げてくれた存在なのです。
一方でベルは当初こそ、野獣の恐ろしい姿に息をのみ、父を牢に閉じ込め、身代わりの自分を閉じ込めた者として彼を拒絶していましたが、手当てをしながら堂々と言い合い、対等な関係になったのをきっかけに彼の荒々しさだけではない素直さや孤独を見抜き、彼の隠された優しさを引き出していったのです。
野獣という異質な姿の自分を恐れずに触れて受け入れてくれる、失いかけていた人間性を取り戻し、愛する事の喜びを教えてくれる、そんなベルだから彼は惹かれていったのです。
決して二人は、助けてもらったから、美しいから好きになったのではなく、お互いに異質さも受け入れ、本来の姿を見つめてくれた存在だから惹かれあったのだと思います。
④真実の愛の証明
野獣の呪いが解ければ使用人達も人間に戻れるので、彼らはそれを強く望んでいます。(実写ではバラの期限が過ぎれば使用人はただの動かない家具と化す=人間としての死という過酷さもあり。)
それでも二人の仲を取り持とうとはしても、使用人達も野獣自身も、ベルに呪いを解くのに彼女の愛が必要だとは決して言いません。
優しいベルがその事を知れば、皆を助けるために彼を愛そうとするでしょう。それは作られた気持ちであり、本物とは言えません。
だから誰もベルに、呪いを解く必須条件の話をしないのです。
しかしどれだけ自然に惹かれあっても、ベルが囚人として城に閉じ込められている現実は変わりません。
野獣の呪いを解くには愛し愛される事が条件。野獣は人間に戻りたいがためにベルを愛するのか、それを否定し、愛が真実であると証明するのは言うまでもなく「彼女を手放し、自由にした事」でしょう。
舞踏会の後、野獣はベルに自分と一緒にいて楽しいかを問います。
ベルは笑顔でそれを肯定しますが、やはり父モーリスに会いたいと表情を曇らせます。
どんなに野獣に惹かれても、ルミエール達使用人が良くしてくれても、自分が囚人である事に変わりはないし、大切な家族である父への思いは断ち切れない。
実写ではベルに「自由がないのに幸せになれる?」と問われています。どんなに幸せでも自由がない以上は、真の幸せとは言えません。
魔法の鏡で見せてもらったモーリスはベルを救おうと、狼の生息する森で行き倒れているところで、実写ではガストンと民衆の手で精神病院送りにされかけているところでした。(当時の精神病院は医療福祉施設ではなく、狂人扱いされて鉄格子の牢に入れられるようなものでした。)
父の身を案じるベルに野獣がしてやれる事、真実の愛の証明は彼女を解放し、父のもとへ行かせる事でした。
彼女を解放すれば自分のもとには戻ってこないかもしれない、そうすれば自分は人間に戻るチャンスを永久に失う事になる。
それでも彼は、自分の未来よりもベルの自由と幸せを優先したのです。自分の想いを押し付けるのではなく、相手の気持ちを受け入れ、相手のために行動する。これが野獣が示した愛の証明です。
実写ではベルが去った後に野獣の歌唱シーン「ひそかな夢」が入ります。
愛する事で知った幸せと痛み。全てを手にしていたと思い込んでいた人間だった頃への後悔。自分を愚かしく思いながらも、ベルがいつか自分のもとに戻ってきて愛してくれる夢を見ようという心を締め付けられるような切ない名曲になっています。
一方、ベルはガストンに扇動された民衆が野獣を殺しに向かうのを止めて、野獣を救おうと彼の城に駈けていきます。
実写ではドレスを脱ぎ捨てているので、なりふり構っていられない様子がより表れています。
そしてベルは野獣が死に瀕している時にやっと自身の想いに気づき、愛の言葉によって彼を救うのです。
実写ではベルの告白は間に合わず、バラが全て散ってしまうのですが、その愛は魔女の正体であった町の物乞い女のアガットの前で証明されました。
アガットはバラを再生させ、野獣と使用人の呪いを解きます。
物乞いという弱い者に化けて町に入り込み、人間の本性を見ていた魔女に愛を証明し、魔女に許された事で呪いが解けるというオリジナルの解釈がされています。
いずれにせよ、ベルは野獣の愛に応え、彼を救ったのです。
アニメ版美女と野獣は子供の頃から好きで数えきれないほど見て来た名作です。
これが実写化され、完璧な再現度と新しい追加要素を含み、素晴らしいミュージカル映画となる。劇場で感極まる思いで幸せでした。
そしてよく言われる「人間に戻った王子の姿より野獣の方が好き。」という話ですが、私もそれは分かるし、単に好みの上での話なら個人の自由だと思います。
ただ、ベルが姿の変わった彼の目を見て確信したように彼は彼ですし、元は人間であるし野獣も使用人達もそれを望んでいたのだから、彼らの幸せを考えれば結末はこうあるべきだと思います。
野獣のままでは愛する事の本当の意味も知らず、人間性まで失っていくのですから。
実写を通してアニメ版も見直したくなったし、この作品が改めて好きになりました。