ディズニーの「ノートルダムの鐘」は中1の頃に、学校で初めて見て以来、特に好きな作品です。
原作が原作なので、夢と魔法がたくさん詰まった他のディズニー映画と比べると異色中の異色で、ストーリーが迫害や差別、愛憎や宗教と重い内容となっていますが、そこに本作の魅力があると思います。音楽もさすがはアラン・メンケン氏と言うべき荘厳な名曲揃いなので、ミュージカル作品としても名作です。
そして現在、公演中の劇団四季によるノートルダムの鐘は、ディズニー版の音楽とストーリーに原作の要素も組み込まれ、新しい設定が付けられている個所もあり、原作とディズニー版が上手く混ざり合った内容となっていて興味深いです。
私は去年3月に東京公演を、今年6月に横浜公演を見てきたので、ディズニー映画版と合わせて語りたいと思います。
※映画自体は20年以上前の作品だし、四季版も始まって1年以上経つのでネタバレは配慮しませんので、あしからず。
1、最愛のヴィラン、クロード・フロロー
映画版では判事、四季版では大助祭(ちなみに原作では副司教)であるフロローは、個人的にどの作品の悪役より1番好きな悪役。
映画版のフロロー(以下、判事)は、ジプシーの迫害と排除に執念を燃やす差別的で冷酷な男。鞭打ちの刑を視察しながら「もっとゆっくり間を空けて。痛みをよく感じるように。」などと言う残虐性もある。彼の中にあるのは悪意というより、歪んだ正義感。魔術を使い(と思い込んでいる)、街の秩序を乱す俗悪なジプシーを排除する事が高潔な自分の使命であり、正義だと盲信している。
しかし、どんな残虐な行いも正義と信じて疑わない彼にも罪悪感がある。
ジプシーの女(カジモドの母親)から赤ん坊を奪い、蹴り飛ばして死なせ、赤ん坊を井戸に捨てようとしたのを司祭に咎められ、大聖堂が彼の罪を見ていたという事実を突きつけられる。聖域である大聖堂の前での人殺し、その罪を認めざるを得ない状況に判事は司祭に言われた通り、赤ん坊を育てる事を了承するわけだが、ここで「ジプシーなど人ではないから殺しても罪にはならない」と突っぱねたりは出来なかった。これは大聖堂の持つ圧倒的な威圧感もあるだろうが、彼の中に罪悪感と信心深さが存在する証拠だと思う。
さらに判事はジプシーの踊り子エスメラルダに歪んだ恋慕と欲望を抱き、その汚らわしい感情に恐ろしいほどの罪悪感を抱き、苦悩する。苦悩の末に彼が出した結論は、自身の欲望による罪を認めず、エスメラルダを「自分を狂わせた魔女」として断罪する事、それでも彼女を我が物にしたい欲望を捨てきれず、彼女に自分を受け入れるか、火炙りになるかを選ばせる決断をする。
これは身勝手で独善的な決断と言えるが、今まで知るはずもなかった感情に戸惑って苦しみ、欲望を抑えきれない人間の業が現れている。つまり、判事は物凄く人間臭い悪役であり、そこが最高の魅力だと感じる。
四季版のフロロー(以下、大助祭)は、映画版の判事が冒頭から冷酷な人物だったのと違い、元々は真面目で信心深く、弟思いの優しい兄だった事が描かれている。弟ジェアンが遊び好きで奔放なのとは対照的に、真面目に精進して神に身を捧げる兄だったが、禁忌を犯した弟を庇いきれず、兄弟は決別してしまう。
中には「なぜ大助祭は弟を庇ってやらなかったのか。なぜ奔放な弟を個性として受け入れてやらなかったのか。」という人がいるが、これは無理な話であると思う。大聖堂に引き取られて育てられた孤児だった2人がその掟や教えに従うのは半ば義務であるし、恋愛観や性に対する考え方がある程度自由な現代ならともかく舞台は中世のフランス。教会に育てられた者が大聖堂に女を連れ込む、しかも異教徒のジプシー女を連れ込むなど、とても庇いきれるレベルではない。まして、あれだけ信心深い兄に「誕生日プレゼント」と称して、ジプシー女を当てがおうとするなど、侮辱だと怒ってもいいようなものだ。
それでも破門された弟の身を案じる大助祭の良い兄ぶりには泣けてくるものだが、彼は弟とジプシー女が遺した赤ん坊を背負わされる事になる。結局、ジェアンからは最期まで心配と迷惑をかけた事を兄に謝罪する事もなく、自分が望んだ自由の責任を果たせず兄に押し付けているように思わざるを得ない。彼の中では優しい兄が庇ってくれる事は無意識のうちに当たり前のようになっており、庇う兄がどんな気持ちでいるかなど想像した事もないのだろう。
これでは大助祭が赤ん坊に出来損ない(カジモド)という名前を与え、父親である弟を悪く教えるのも無理もない。
判事が赤ん坊の醜い容姿から名付けたのに対して、大助祭にとっては単に醜いからではなく、堕落した弟夫婦の業を背負っているため醜く、罪の子として赤ん坊を捉えているように思う。カジモドは父親のように堕落させず、正しく導いてやろうという使命感がある以上、実の父親であるとはいえジェアンは反面教師として教えざるを得ないのである。
もちろんそこには大助祭の傲慢さや押しつけがましい教育も見え隠れするのだが、彼なりのカジモドとの向き合い方や人間らしい思いが伺える。
これほど信心深く真面目で弟思いだった彼がエスメラルダと出会い、壊れていくのである。これは判事と大助祭に共通して言えるが、どれだけ秩序を重んじる禁欲主義であっても、人間である以上は人間らしい欲望があるのは当然である。エスメラルダとの出会いは彼が抑えてきた人間として、男としての欲望を目覚めさせ、思い知らせてしまった。恐らく初めてであろう熱く激しい感情に戸惑い、苦悩し、狂気を加速させてより大勢の人々を虐げ、最期には身を滅ぼす姿があまりにも悲しく、物語上の悪役としては美しい。
2、四角関係と物語の目的
作中、エスメラルダはカジモド、フィーバス、フロローと3人の男達に想いを寄せられるが、エスメラルダ自身が選んだ男はフィーバスだけである。ここで重要なのは、彼女は3股をかけるような恋多き女ではないという事。あくまで彼女が異性として恋した相手はフィーバスのみで、普通の恋愛観の女性であるのに、一瞬で無自覚に3人の男達をいっぺんに惚れさせてる辺り、魅力的という意味ではまさに魔性の女であり、これは単に美人だというだけでなく、堂々とした強さに人を惹き付けるものがあるのかもしれない。
そしてこの物語の主人公カジモドは生まれて初めて外の世界を知り、恋を知り、失恋の痛みを知る事になる。
そもそもエスメラルダはカジモドの想いに気付いてすらいないだろう。
でなければ相思相愛のフィーバスをカジモドのもとに連れてきて匿うように頼んだり、アニメ版ではそこでフィーバスとキスまでしているし、四季版では最期までカジモドの事を友達だと言っている。
彼女にとってカジモドは仲間と同じ、守りたい存在のように思える。自分達と同じ迫害を受けている守ってやるべき存在であり、頼れる友達といったところか。
一方、フィーバスは異性として惚れている相手である。ウィットに富んだその優しさは「私は大丈夫、一人で。」と強がる彼女の心を解きほぐすものだろうし、虐げられる弱い市民を守るために自身の身を顧みず、フロローの権力に反抗した彼の勇気にも惹かれるものがあるだろう。しかし恋はするものではなく、落ちるものとはよく言ったもので、彼女の中でカジモドが友達でフィーバスが恋人となった事に理屈などないと思う。
たまに「カジモドは醜いから失恋し、結局は外見重視なのか」という見当違いな感想を言う人もいるが、エスメラルダが彼らを外見どころかそもそも比べている描写などないし、最初に驚いただけでカジモドの外見を特別に気にしている描写もない。彼女がそれぞれへ向ける絆と愛情の種類が友情か恋愛かというだけだと思う。
そして大団円を迎えたアニメ版でも「主人公カジモドが失恋して報われないからハッピーエンドではない。」と言う人もいるが、これも違うと思う。これは恋愛要素はあれど、物語の主題そのものはロマンスではないと思うし、この物語の主題は「人と怪物の違い、人間の明暗」や「社会から外される者が受け入れられる事」だと思う。だからゴッドヘルプのシーンや、アニメ版のエンドロールで流れるsome dayの歌詞、四季版での牢獄でエスメラルダとフィーバスの歌う「いつか」のシーンが生きてくるのではないか。
外見の醜さから幽閉されて育ち、祭りの場で民衆から晒し者にされたカジモド、差別と迫害を受けるエスメラルダとジプシー達、権力に逆らいエスメラルダもろとも追われる身となったフィーバス、彼らは皆「社会から外された者」である。
それをふまえてアニメ版のラストではカジモドは幼い少女から怖がらずに顔に触れられ、民衆にも受け入れられて自由を手にする。
異質だった彼が受け入れられる事で、この物語の目的は達成しているし、失恋したとはいえエスメラルダだけでなく、恋敵だったフィーバスとも良い友達になっている。これは十分、ハッピーエンドと言えるのではないか。
四季版ではカジモドはエスメラルダの亡骸を抱いて、何年か後に白骨化して見つかるという原作と同じ結末だが、彼は最期まで愛を貫いたわけだし、牢獄のシーンでエスメラルダは死を覚悟しながらも未来に希望を託している。ハッピーエンドかどうかは解釈によって論争が起きそうだが、人の心に訴えかける深い結末となっている。
3、人の心の明暗
この作品では人間の明暗がはっきりと描かれていると思う。
まずは道化の祭りのシーン、祭りを楽しむ人々の明るく華やかな雰囲気の中に醜く異質なカジモドが現れた途端に、驚愕や恐怖心といったものによって一瞬で、その雰囲気は凍りつく。 しかしクロパンがカジモドこそがパリ一番の醜さを誇る道化の王様に相応しいと宣言すれば、凍りついた雰囲気は解けて再び盛り上がった楽しい雰囲気が戻ってくる。しかし盛り上がりが最高潮に達した頃、誰かが「こうすればもっと醜い!」とカジモドに物を投げつければ、皆が一斉に物を投げて縄で縛って拘束する(四季版では鞭まで打つ)ほどに民衆は無自覚のままに暴徒と化し、助けを求めるカジモドを見て笑いながら誰もその手を止めない。このシーンにその場の雰囲気に呑まれやすい集団心理を感じる。そして彼らの中ではカジモドは「奇妙な醜い生き物」として捉えられ、叩いてもいい存在となったのではないか。
実際のいじめでも同じ事が言えると思う。集団の中で特定の相手に何らかの理由を付けて「叩いてもいい存在」として暗黙の認定をする。
いじめられる原因を相手の中に作りだし、相手の苦痛など想像もしないか悪意のままに軽い気持ちで叩くのではないだろうか。
そんな「叩いてもいい醜い存在」として認定された彼を「人間」として扱い、盛り上がる集団を恐れずに救いだしたのがエスメラルダ。
この優しさと勇敢な強さ、堂々とした姿が彼女の美しさをいっそう引き立たせていると思う。
しかしアニメ版では誰も彼女に反感を持たず、その後の兵士からの逃走劇では歓声すら上げていた民衆が、四季版では彼女を罵倒するのである。「せっかく楽しんでたのに、このあばずれ!」と、さっきまで見事なダンスを披露するエスメラルダに歓声をあげていた民衆が掌を返したように彼女に矛先を向ける。カジモドを救って逃がした彼女は今の民衆にとって、余計な事をして皆の楽しみに水を差した存在であり、カジモドを叩くという集団の雰囲気に逆らった異質な存在となってしまった。そんなエスメラルダにクロパンは「だから『よせ』と言っただろう!」と叱るのだが、彼は矛先がこちらに向く事が分かっていたのだろう。集団の中で理不尽な標的にされた者を救い、集団に逆らうと自分に矛先が向く。これが実際のいじめ等でも皆が傍観者になる原因だと思う。
人間の明暗といえば、フロローとカジモドの対比もそうだろう。
エスメラルダに恋をした2人がそれぞれ、彼女への想いを歌う楽曲「天国の光/罪の炎」
同じ一人の女性への恋、そして初めて知った感情という点では共通しているが、その性質は真逆である。
カジモドはエスメラルダを天使に喩え、願う事が許されないとしても彼女と出会った事に幸せを感じている。
初めて知ったその感情は天国の光のように温かいものだった。
エスメラルダはフィーバスと相思相愛なので、この後にカジモドは失恋して傷つく事になるが、それでも彼女を救おうと必死に足掻く。
自身の想いが叶うか否かではなく、愛する彼女の幸せのための行動。
ましてアニメ版では、エスメラルダとフィーバスがキスをするのを見て悲しんでいた彼が、最後には2人からそっと離れ、抱き合う2人を笑顔で見守るのである。
フロローはエスメラルダを魔女として、自分の彼女への想いや彼女の魅力そのものを穢らわしい罪と感じている。
それでも抗えない初めての感情への苦悩はまさに地獄。あらゆる穢れを退けてきたはずの自分が変わっていく恐怖や、自分が欲のある人間だったと思い知らされる絶望の中で、彼は最悪の結論を出してしまうのである。
町を焼き払ってでもエスメラルダを見つけだし、自分のものになるか火炙りになるかを選ばせるという結論を。
彼女を火炙りにして排除すれば自分もカジモドも救われると言っておきながら、彼女にその選択を迫るのは彼女に愛されたい、自分のものにしたい想いを捨てきれないからだと思う。
まして四季版では牢獄のエスメラルダに迫りに来るのだ。「おまえと一緒に逃げる夢を見てしまう。」と。
「あなたは本当に怪物ね。」というエスメラルダにフロローは、自分がただの人間である事を話すのがなんとも切ない。
そして終いには、自身の想いを拒絶したエスメラルダを火炙りにしてしまい、カジモドが彼女を救って大聖堂に逃げれば、大聖堂を襲撃する。あれだけ信心深かったというのに。
エスメラルダとの出会いに幸せを感じて、自身の想いが報われなくても彼女を救おうとしたカジモド。
エスメラルダへの想いに苦悩し、自身の想いをはねつけられれば彼女を殺そうとしたフロロー。
この2人は物凄く対照的と言える。
4、カジモドの純粋さとフロローの最期
赤ん坊の頃から大聖堂の鐘楼から出る事を許されず、外の世界を知らず、育て親であるフロロー以外の人間とも関わらずに生きてきたカジモドは物凄く純粋な存在だ。純粋だからこそ先述したように、自身の想いが叶わなくてもエスメラルダを救おうとする事が出来る。
失恋して傷つき、迷ったり悩もうとも、ただ純粋に彼女に生きていてほしい、幸せであってほしいという心から、彼の世界そのものだった大聖堂を抜け出し、フロローに背き、彼なりに戦う。これは四季版、アニメ版で共通だが、フロローの最期のシーンにおいて明らかに純粋さの性質が違う。
アニメ版のフロローは、自分に背いてエスメラルダを火刑台から救ったカジモドを殺そうとするが、鐘楼のバルコニーからカジモドもろとも落ちそうになり、宙吊りになってしまう。カジモドが手を放せばフロローは落下する事になるが、彼は決して手を放そうとはしない。
自分を殺そうとした上に、ずっとフロローに言われてきた「酷い母親に捨てられたところを育ててやった。」という事が嘘だと判明したというのに、カジモドは彼を放そうとはしない。この少し前のシーンで、「世間は冷たいと教えられてきたけど、本当に冷たいのはアンタじゃないか!」とフロローの呪縛を断ち切っているにもかかわらずだ。これは純粋に、どんな相手であろうと人間を見殺しにする事が出来ないという彼の優しさだろう。考える事も迷う事もなく、カジモドの脳裏には手を放して人を見殺しにするという考えは存在しない。相手が自分を縛ってきた者で、母の仇で、愛するエスメラルダを火刑にしようとした人間だとしてもだ。
カジモドの純粋な強さと優しさに報いる事なく、フロローは自力で隣の石像に飛び移ると、カジモドを支えるエスメラルダごと剣で叩き斬ろうとする。狂気に満ちた人間の恐ろしさを最期まで見せつけたところで、足元の石像が崩れ、神の怒りに触れたように彼は転落死する。
石像の目が光り、恐ろしい形相に見えたのは神の怒りか、フロローが自覚していない罪悪感によるものかは個人で解釈が変わってくるかもしれない。
四季版でもエスメラルダを火刑台から救ったが、彼女は息絶えてしまい、カジモドは彼女を処刑したフロローを大聖堂の下に投げ飛ばして殺してしまう。しかし、これは単に愛するエスメラルダを殺した報復ではないと思う。その際のカジモドの台詞である「悪人は罰を受けるんだ!」はフロローがカジモドに教え続けてきた事であり、カジモドはフロローを慕い、鐘楼の中と彼の教えは世界そのものだった。エスメラルダを殺したフロローは悪人であり、カジモドは彼を殺す=罰を受けさせる事で、彼の教えを遂行したのだ。そこには育ての親である彼自身を殺しても、その教えに従う純粋さを感じる。息絶えたエスメラルダとフロローを前にして、「僕の愛した人は皆・・・」「2人共死んでしまったよ。」と慟哭する事から、カジモドはエスメラルダを火刑にした事を悪としながらも、最期までフロローを慕っていた事が伺える。
その後カジモドはエスメラルダの遺体を抱きかかえたまま息絶え、2つの白骨として何年後かに発見される。最期の最期まで愛を貫き通したこの結末にも、彼の純粋さを感じる。
一方、カジモドに投げ飛ばされる直前、「おまえに愛の何が分かるんだ」と言われたフロローは「弟を愛していた!」と返している。
街を焼き払い、エスメラルダを火刑にしたフロローは、冒頭では弟思いの真面目で優しい兄だった。弟への愛情は本物だったし、弟が遺した子であるカジモドに堕落した弟の罪を見出していたとはいえ、彼なりの愛情を持って育ててきた事が伺える。悪役が誰も愛せないとは限らないし、愛がいつも温かいものとは限らない。フロローは歪んだ愛でカジモドを縛り、エスメラルダを殺し、最期は愛して育てた子に殺される。その間際、聞こえたのは「悪人は罰を受ける」という亡き弟夫婦の声。これは2人に対する罪悪感が成せるものかもしれない。
また、以前に原作がNHKの番組で取り上げられた際に言われたように、カジモドによるフロローの最期は心理学上の「父親殺し」である見方も出来る。
男の子が大人になる上で乗り越えるべき壁が父親。
絶対的に従ってきた育て親であるフロローに初めて逆らい、エスメラルダを守るために嘘を吐き、最期には自分の意思で親を断罪する。
親がかけた鎖を解き、他人の存在や世界、恋を知った事で自分の意思で動くようになる事は、カジモドが大人になった事を示しているようにも思える。
5、最後に
アニメ版ノートルダムの鐘は私が小学生の頃に公開されたが、初めて見たのは中学1年生の頃だ。
もともと、ディズニー映画で育ったと言えるほど多くの作品を見てきたし、ディズニーらしいミュージカル音楽と、ディズニーの中では異色な内容に惹かれ、特にフロローには惚れ惚れしたものだ。
しかしアニメ版での歌詞の一部「誰が人間で、誰が怪物か」という部分は疑問だった。
単に、外見は醜いけど優しいカジモドが人間で、外見は普通だけど恐ろしいフロローは怪物だと言っているなら納得がいかない。
何故なら、先述したようなフロローの悪役としての恐ろしさは、時代設定もふまえて人間の恐ろしさだと思っているからで、フロローは怪物ではなく人間だと、中学生の私はそう思っていた。
しかし四季版の歌詞の一部では「人間と怪物、何処に違いがあるのだろう。」となっており、これを聞いてようやく理解出来た。
人間と怪物を単に外見と内面で比較しているのではなく、人間の中の怪物性を描いているのだと思った。
だからこそカジモドは観客の目の前の舞台上でせむしの格好をしたり、民衆の役の人々が顔を汚すシーンがあるのではないか。
思えば、ディズニー版「美女と野獣」も単なる醜く善良なものと美しく邪悪なものの比較ではなかった。(詳細は美女と野獣の感想に記述。)
欲望と狂気にかられたり、人を傷つけたり、差別する怪物と、自分の想いより他者の幸せのために行動したり、愛する者を助けようとする人間は、誰の心にも存在し得る。
もう20年以上、大切にしてきた物語の理解が深まり、四季版を見ればアニメ版を、アニメ版を見れば四季版を見たくなる。
ノートルダムの鐘はディズニー作品の中ではマイナーだし、作品自体は重い内容なので、人によって好みが分かれると思うが、深いテーマを問いかけてくる見応えはあると思うので、もっとたくさんの人に見てほしいと願う。