「天国からはじまる物語」 ガブリエル・ゼヴィン著 理論社刊
オーバーオールに着がえようとバスルームに入ると、手足がひょろ長く、金色がかった毛色の、血統の特定しがたい(べつの言葉で言えば、雑種)中型犬が、便器から水を飲んでいる。
「ねえ、あなた」リズは犬に声をかける。「そんなところから水を飲むことないわよ」
犬はリズを見あげる。ややあって、犬は不思議そうに首をかしげ、口をひらく。
「水は飲むためにあるんじゃないの?」と犬はたずねる。「じゃなきゃ、床に置いたたらいみたいなものに、水を入れておく理由がほかにある? このちっちゃなハンドルをおせば、新鮮な水だって出てくるじゃない」 犬はじっさいに左の前足でトイレの水を流してみせる。
「ちがうわ」リズはやさしく話しかける。「これはほんとうはトイレなのよ」
「トイレ?」犬はきき返す。「なに、それ?」
「用を足すところよ」
「用を足す? なんの用?」
「ここで、用をすますの」リズは気をつかって遠まわしに話す。
犬は便器を見つめる。
「なんてこと!」と犬はうめく。「ということは、アタシがずっと水を飲んでいたのは、人間がオッシコとか・・・・」犬はいまにも吐いてしまいそうな様子だ。「なんでだれも教えてくれなかったの? もう何年もトイレから水を飲んでいるのに、ぜんぜん気づかなかった。 みんないつもドアをしめちゃうから」
「ほら、流しから冷たいお水をくんであげるわ」リズは小さなボウルを見つけて、水を満たす。
「さあ、どうぞ!」
犬は夢中で水をピチャピチャ飲みはじめる。飲みおわると、犬はリズの脚をなめる。「ありがと。考えてみたんだけど、アタシの”二本足の相棒”もトイレのこと、いちおうは教えようとしてくれたんだと思う。あの人、ビリーっていうんだけど、ふたをしめておくことにかなり気をつかってたから」ペロ、ペロ、ペロ。
(中略)
1ヶ月後、ルーシーという名のパグが<ドコカ>にやってくると、リズの気持ちは変わる。
ルーシーは13歳でおだやかに永眠した。子供のころのリズの部屋で(何年も前にリズの荷物は箱にかたづけられていたのだが、ルーシーはそこで寝るのをやめなかった)。
軽い関節炎をわずらって、顔の毛が灰色っぽくなったルーシーが、遊歩道をよたよた歩いてくるのを、リズは海岸から見まもっている。ルーシーはまっすぐにリズのもとに来ると、ゆるくカールしたしっぽを3回ふった。彼女は首をかしげて、つき出た茶色い目を細め、リズを見あげた。
「どこにいたの?」ルーシーはたずねる。
「わたしは死んだのよ」リズはイヌ語で答える。
(中略)
ルーシーはシワのよったかわいい顔でうなずく。「会えなくてさびしかったんだから。アルヴィも、オリヴィアも、アーサーも、ワタシも」
「わたしもさびしかったわ」 リズはルーシーをかかえあげて、小さいわりに重い体を抱きしめる。
「体重がふえたわね」 リズはからかう。
「ほんの1、2ポンドか、せいぜい3ポンド程度よ」とルーシーは答える。「ワタシとしては、ちょっと体重があったほうが見栄えがいいと思うのよね」
「ムルタム・イン・パーヴォウ」と、リズは茶化す。ラテン語で、”小さいけれど中身がつまっている”という意味だ。ルーシーは太りやすい傾向にあるため、その表現はこのパグのモットーであり、リズの家族のあいだのお気にいりのジョークになっていた。