「犬の人生」 マーク・ストランド著 村上春樹訳

彼は妻に言いたいことがあった。でも、彼が言わなくてはならないことは問題を含んだ内容だったので、なかなか切り出せずにいた。彼はそれまでに何度も口の中で声を出さずに繰り返していた。いよいよ切り出す潮時だった。穏便にはすまないかもしれないけれど、やはりきちんと話さなくてはなるまい。「ねえ、前から君に言わなくちゃと思っていたことがあるんだよ」と彼は言った。
トレイシーの目は何かを恐れるようにはっと見開かれた。「グラヴァー、あまりいい話じゃないんなら、私はそういうのは・・・・」
「君と会う以前には、僕は今とは違っていたというだけのことだよ」
「違っていたって、それはどういうことなの?」トレイシーは彼の顔をうかがいながらそう訊いた。
「いや、実を言うとね、僕は以前は犬だったんだよ」
(中略)
「問題なんて何もないよ。僕が言いたいのはね、あのころの僕の生活には悲劇的な側面があったということだけだよ。僕が少数の友だちと連れだって、風の吹き荒れる小さな丘の上で、鳴いているところを想像してくれ。すでに埋められてしまった僕らの狡猾さの断片を求めて僕らは鳴いていたのだ。虜囚の身に落ちて、文明の中に心ならずも身を置いて、あともどりのできない家畜化の憂き目を見て、それによって僕らがなくしてしまった誇りを求めて、僕らは吠えていたのだ。・・・・」
(中略)
「でも、昔犬だったとしたら、また犬になることだってあるんじゃないの?」
「もう一度そうなるというしるしがないからだよ。僕が犬だったころには、自分が結局いつか今みたいになるだろうという兆候があったんだ。僕は裸でいることにどうしてもなじめなかったし、人目を忍ぶべき行為を公衆の面前で行わなくてはならないことに苦痛を感じていた。発情期の雌がこれみよがしに身繕いをしたり、尻尾を振ったりするのを目にしていると恥ずかしかった。仲間の雄たちが性欲にはあはあとあえいでいるのを見るのも恥ずかしかった。僕は引きこもりがちになった。僕はひとりでもの思いに耽った。僕は犬的な神経症になった。それが指し示すのはたったひとつのことだ」