2009年7月31日 読売新聞


「磯田道史の古今をちこち」


紙面で「日本史家」と紹介されている磯田道史(いそだみちふみ)さんは、茨城大学人文学部准教授で、『武士の家計簿』新潮新書刊の著者として、よく知られている方です。


『武士の家計簿』には、「加賀藩御算用者の幕末維新」と副題がつけられています。


加賀藩で算盤係、いわば経理を担当していた下級武士の猪山家で、江戸末期から明治維新にかけて36年間にわたってつけられていた家計簿を通して、すさまじい社会経済変動を生き抜いた「ある家族の生活の歴史」を浮き彫りにした名著です。


その磯田先生がとりあげたのが、江戸時代の人気犬種「狆」についての史実だったのです。


織田・豊臣から徳川初期のお城を発掘すると犬の骨が出てくる。食べた跡がくっきり残っている。しかし、ある時期から東アジアのなかで日本人だけが犬を食べなくなった。徳川幕府が食犬を禁じ、五代綱吉の「生類憐みの令」にいたって食犬の風習は絶たれた。


かわって人気となったのが狆の飼育だ。江戸以前の人びとは狆と犬とは別な生き物と思っていたふしがある。少なくとも狼と犬ぐらいの違いの感覚でとらえていた。


狆は高級愛玩動物で、天下泰平の時代、大名家の奥向きでさかんに飼われるようになった。大名家の女性たちはさみしい。殿様の愛に恵まれるとは限らず、生涯、屋敷の奥に幽閉されるから、なぐさめが欲しい。それでたいてい狆を飼った。


当時、狆は高貴な生き物と考えられ、目玉が飛び出るほど高価。豪商なども狆を養い、飼っていた狆が死ぬとほとんど正気を失う者まで出た。


日本における純粋な意味での犬の愛玩は、狆の飼育がはじまりであるといっていい。

(中略)

ほかを探したら面白い古文書が出てきた。「狆育様療治」(ちんそだてようりょうじ)。香川大学神原文庫にあった。狆の飼育法を書いたおそらく日本唯一の書物だ。

(中略)

解読して驚いた。江戸時代の狆の実態は驚くべきもの。高価な狆を国内繁殖すれば大儲け。現代顔負けのブリーダー(繁殖家)がおり狆はあわれなほど種づけされていた。


「男狆は生まれて15ヶ月目から女狆にかける」、女狆は「サカリ付より14日目当より男狆合わせる」。猛烈に交尾をさせられていた。血統の良い「よき筋の男狆2、3度づつもサカリ女狆に合せ」ればしまいには「男狆つかれ舌も白く成」ると書かれている。悲惨だ。


そういうときは狆専用のスタミナ飲料をつくり卵・鰻を食べさせ、また交尾させるのだという。


高貴な狆はまさに薬漬け医療。人間も服用できない朝鮮人参・カワウソの黒焼きまで飯にまぜて食べさせられ、灸治もうけていた。


無理な繁殖もおこなわれたようだ。近親交配の問題も起きていた。「たびたび、よき子を産み、サカリのたび掛けるときはのちに」奇形の「子を産」んだ。だが、当時は近親交配のせいとは認識されず男狆を交尾で疲れさせたために起きる現象と考えられていたようだ。これも悲惨だ。


犬は愛してもよいが自分の都合で玩ぶ(もてあそぶ)ものではないと、つくづく思った。



関口すみ子著 「大江戸の姫様-ペットからお輿入れまで」角川選書には、ちょっと寂しい姫さまの心の友、ペットの狆のお話が登場します。


身分差や男女差をきっちりさせたがる大江戸には、ペットにも、クラスやジェンダーがある。


大型の洋犬(唐犬)ならば、大名の愛玩犬や狩猟犬、その他、長崎から次々と輸入される、様々な新種や珍獣は、おタクな殿様たちの格好の収集品である。


女、とくに規範となる「上つ方(うわつかた)」の女は奥にいるから、女には、家の中で飼える猫や子犬がふさわしい、ということになる。

(中略)

子犬、なかでも、紅い首飾りをつけた、白と黒の毛のふさふさした狆は、奥の空間にふさわしい華やかなペットなのである。

(中略)

日本の犬、なかでも狆に目をつけたのがシーボルトである。オランダのライデン国立自然史博物館には、シーボルトの持ち帰った狆の剥製がある。また、鞠と戯れる、御所風の狆のミニチュアががライデン国立民俗学博物館にある。シーボルトの絵師であった川原慶賀の「メチン、オチン」の画も自然史博物館にある。


狆は、シーボルトによって、あらためて、日本の犬「チン」として紹介されたのである。


「狆は犬か」と江戸の人間に聞けば、「狆は犬ではない」という答えが返ってきたかもしれない。そもそも、江戸時代の分類では、「犬」というカテゴリーには、その下に、外を走り回るふつうの「犬」とは別に、「狗(いぬ)」「狗子(いぬのこ)」がある。後者は、子犬類(小型犬や犬の子)であり、むしろ、猫に近いと考えられていたようだ。


字と分類を教える、一種の字引に、『分類早見字尽』1806年刊がある。ここでは、「獣之部」に、「犬」や「狐」と同様の、独立した項目として、「猥犬(むくいぬ)」「唐犬(とうけん)」、「狗子(えのころ)」、さらに「猫」、そして最後に「狆」が立てられている。


ということは、これによれば、「狆」とは、「犬」でも「狗子」でも、あるいは、毛のふさふさした「むく犬」でもない、「猫」などと同様の、独立した種ということになる。


数を増した狆は、やがて町人の間でも飼われるようになります。


人気があったのは、顔にチョンマゲを結っているように見える「点星」と呼ばれる模様(サムライ班)を持つものでした。背中に「鞍かけ班」、尾の根元に「おどめ班」と呼ばれる模様があるものも好まれました。マズルがピンク色をしているものは、ブリーダーの名前から「森田屋口」と呼ばれ、珍重されました。


黒船を率いてやってきたペリーが4頭の狆をアメリカに持ち帰ったのが、狆が日本から海外に輸出される契機になったと言われます。その内の2頭は、イギリスのビクトリア女王に献上され、1862年にジャパニーズ・パグという名称で展覧会に出展されました。


狆は、浮世絵版画とともに、開国後の日本の主要輸出品目となったのだそうです。


狆は、明治時代にも主に花柳界などで飼われていましたが、大正時代以降数が激減し、洋犬人気にも押され、日本では稀な存在となってしまっています。今や、海外で飼われている狆の数の方が圧倒的に多くなっているのです。


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