「心に残るとっておきの話 第3集」 潮文社編集部編


「赤ん坊を殺せ」 古賀 昭人 昭和2年生まれ 福岡県 大学名誉教授


知り合いのTさんは、福岡県の久留米市に住む70歳を越したくらいの方でした。


20年ぐらい前、Tさんは、一頭の柴犬を飼っていたそうです。子供がいなかったTさんにとっては、その犬は子供のような存在でした。


ある夜、近所の若い男が突然やってきて、「お宅の犬がやかましく吠えるので、赤ん坊が泣いて夜も眠れない。誰かにやるか、殺すかして下さい。」と言ったのです。


Tさんと奥さんは泣く泣く、犬を大阪の妹のところに預けることにしました。


ところが、犬はその日のうちに鎖を引きちぎって、行方不明になってしまったのです。


それから2週間後、広島県の呉市の警察から電話があり、首輪にTさんの住所と電話番号が書いてある犬を保護しているという連絡が入りました。


Tさんは、呉に出かけ、やせ衰えた犬を久留米に連れ帰りました。


次の夜、「犬がうるさい、殺せ」と言った若い男の家から赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。


Tさんは、その家にでかけて、こう告げたのです。


「泣き声がうるさくて眠れないじゃないか。どこかに赤ん坊を捨てるなり、殺すなりしてくれ」


相手の顔色がサッと変わるのが分ったTさんは、静かに話し始めたのです。


「あの犬は我々にとって、可愛い子供だった。その子供に対してあんたから殺せとすごまれた。犬は400キロの道を呉市まで歩いてきて、警察に無事に拾われた。骨と皮になった犬を今あんたに見せようか。そしたら分るだろう。私があんたの赤ん坊に対して、殺すなり、どこかに捨てろと言った意味が!」


相手は目をふさいで、しばらくうつむいて私の話をじっと聞いていました。私が話し終わると、彼は両手をついて頭を深々と下げるじゃありませんか。


両目から涙が流れだしているのを私は認めました。そして、私に言ったことばは「Tさん、私が悪かった。許して下さい」でした。


Tさんとその人はその後、仲良くなりましたが、犬はすっかり弱くなって、1年ぐらいで死んでしまったそうです。


(以上、本文から抜粋編集)