1990年11月、長崎県島原半島の雲仙火山群のひとつ、普賢岳(ふげんだけ)が、200年の眠りから醒めて、噴火しました。
1991年
1991年5月に入ると、岩や砂が雨で押し流される土石流や火砕流が起こり始めました。
そして、1991年6月3日午後4時8分、普賢岳の山頂にできた溶岩ドームが砕けて、火山灰や軽石が高温のガスと混じりあって落下する、大規模な火砕流が発生しました。
突然の火砕流は、時速100キロを超えるスピードで、普賢岳の南、水無川(みずなしがわ)沿いに駆け下り、4.3キロ下流の赤松谷川(あかまつだにがわ)との合流点まで達しました。
この火砕流は、島原市と南高来郡深江町のふたつの地域に、死者40名、行方不明者3名、負傷者11名、損壊家屋179棟といった甚大な被害をもたらしたのです。
その後、水無川、赤松谷川の周辺に位置する10町、780世帯が避難しました。
さらに、6月8日午後7時51分、普賢岳が大きな噴火を起こして、火砕流は山頂から水無川を流れ下って、海岸からわずか1キロの札の元町(ふだのもとまち)あたりまで、達したのです。
住民はすでに避難していたので、人的被害はありませんでしたが、焼失損壊家屋は207戸に上りました。
被災者はもちろん、避難をした人たちもほとんどが着の身着のまま、逃げるだけで精一杯の状態だったので、500~600頭の犬や猫が、置き去りにされたのではないかと言われました。
6月11日、長崎県と県獣医師会は、被災地の「飼い主がはっきりしている犬や猫」を動物病院で預かるという発表をしました。
しかし、被災地には、飼い主がわからない犬や猫がたくさん取り残されていたのです。
7月の半ば、地元のボランティアが中心になって、「雲仙被災動物を救う会」が結成され、ふたりの地主から動物を保護するための施設を作る土地も提供されました。
こうして、被災地に取り残された犬や猫の救援活動のお膳立てはできましたが、動物の保護や犬舎作りは思うようには、はかどりませんでした。
こうした活動を手際よく進めるためには、それにかかりきりになる専従者が必要ですが、会員のほとんどは、自分の仕事の合間にしか動けない人たちでした。
また、やらなければならないことのあまりの多さや意見の対立などで、会員は次々に辞めてしまい、何もできないまま、1ヶ月も経たずに、会は名ばかりのものになってしまったのです。
そんな状況の中、仕事の合間を縫って名古屋から何度も島原にやってきて、被災動物の救援活動をしてきた今井眞さんは、「せっかくできた会をこのまま終わらせるわけにはいかない」と考え、会社を辞めて、活動に専念する決意をしたのです。
島原に移り住んで、被災動物の救援活動に本腰を入れて取り組んだ今井さんは、いつしか、「雲仙被災動物を救う会」の責任者としての立場になっていきました。
実は、今井さんは、6月7日正午から被災地が警戒区域として立ち入り禁止になると聞いて、その直前に取り残された犬、12頭を救い出していたのです。そして、6月11日に6頭を東京の動物保護団体に預かってもらうため、長崎空港から空輸しました。
6月11日づけで、ある新聞が今井さんの行動を大きく報道し、テレビが放映するなど、全国に大きな反響を呼び起こしたのです。
「雲仙のペット見捨てておけぬ。大火砕流直前、犬12匹を救出。多治見の動物愛護家」
しかし、同時に、ある新聞には、今井さんが6頭の犬を東京に送ったことに対して、批判的な新聞記事も掲載されました。
「里親探し論議呼ぶ。所有権あり、勇み足」
飼い主のいる犬を勝手に里親に渡すのは、一種のどろぼうではないかというものだったのです。
今井さんとボランティアのスタッフたちは、それがほんとうに罪になるのかを警察署に尋ねることにしました。そして、警察署の判断は、「保護した動物の頭数や写真をこちらに届けておけば、まったく問題はない」というものでした。
今井さんたちは、少しでもトラブルが起こらないように、保護した犬と猫の写真を警察に届けるとともに、市内の25ヶ所に掲示するようにしました。そして、飼い主からの申し出がなかった動物だけを里親探しの対象にしました。
6月18日までに、40頭の犬が地元の人たちも含めて、里親の元に引き取られていきました。
ところが、ある日のこと、警戒区域から戻ってきたボランティアのひとりが、思いもかけなかった報告をしました。食べ物に集まってきた群れの中に、里親に引き取られたはずの犬が混じっていたというのです。
市の郊外に住む里親に連絡をしたところ、「2、3日前にいなくなった」という返事でした。
今井さんは、それまで里親になってくれるという人に、何らかの特別なお願いをするということはしてこなかったのですが、里親になってもらうための条件を決めなければならないと考えたのです。
1.病気は治療し、予防接種を受けさせること
2.不妊・去勢手術を受けさせること
3.遊び場や運動場を用意してやること
4.家族全員があたたかくむかえてやること
5.団地やマンションなどの場合は、飼育の許可がとれていること
里親希望者に、里親になろうと思った理由を聞き、上記の条件について説明すると、ほとんどの人は理解を示してくてましたが、中には怒り出す人もいたのです。
「あなたたちが困っているというから、助けてやろうとしているんじゃないか」
「犬が欲しいんだけれど、ペットショップで買えば高いでしょう。あなた方のところは、タダでくれるって聞いたのに、手術を受けさせろなんて、やっぱりお金がかかるんですか」
犬の避妊・去勢手術については、「人間が勝手に子どもを生む権利をうばうなんて、動物虐待ではないか」と悩んだこともありました。
しかし、家を失って放浪している犬や猫が繁殖して、保護される子犬や子猫の頭数が増えてきていたのです。
「避妊・去勢手術は、捨てられる子犬や子猫を増やさないためと割り切るしかない」という結論を出したのです。
その後も、普賢岳の活動はいっこうに衰える気配を見せず、9月15日には、これまでで最も大規模な火砕流が発生し、水無川北のおしが谷沿いに流れ下って、小学校を含む218戸の家屋を焼失させたのです。
警戒区域はさらに広がり、被災動物も増えたにもかかわらず、手伝ってくれるスタッフの数は減っていきました。
夏休みが終わって、学生ボランティアがいなくなったこともありましたが、災害発生から4ヶ月経って、新聞やテレビで話題にされることも減り、人々の関心が薄らいできたためでした。
今井さんは、スタッフとともに、応援してくれる全国の人たちに活動を報告する「雲仙通信」を作っていましたが、それで、人手不足を訴えたのです。それに応えて、冬休みにはボランティア・スタッフが少し増えました。
1992年
1月15日、水無川流域で土石流が発生して、国道251号や島原鉄道に損害を与えながら、海岸まで達しました。
被災地が広がり、保護しなければならない動物の数も増えましたが、冬休みが終わって、スタッフはひとり、ふたりと島原を去っていったのです。
そんな中で、秋田から来ていた渡部りえさんという女性が、専従者として残ると申し出てくれたのです。人手不足は相変わらずでしたが、専従者が2名となったことが、活動をいきいきとしたものにしてくれました。
活動が始まってから1年2ヶ月の間に保護された動物は360頭、その内、260頭が里親の元に引き取られていきました。
地主から貸与されていた土地の返還期限が近づいていましたが、まだ、60頭の犬と25匹の猫が残されていたのです。そして、警戒地域には、まだ100頭ほどの放浪動物が残されていると見られていました。
腹を空かせた動物達は、食べ物を求めて集落や町に出て行き、住民から追い払われる経験をすると、人間を恐れるようになり、保護しようとしても姿を隠すようになっていました。
1993年
雲仙被災動物を救う会の移転先が、水無川の西、南高来郡有家町(みなみたかきぐんありえまち)の雑木林が繁る丘に決まりました。
これまでの6倍の広さ、約2,000㎡の土地で、周辺にはタバコ畑が広がり、いちばん近い家でも200m離れているので、近隣からの苦情も出にくい好立地でした。そして、地主さんからは2年間の貸与期間をもらえたのです。
1月末から施設の建設工事が始まりました。ボランティアや地元のアルバイトの人たちの協力で、2ヶ月をかけて、何とか施設ができあがりました。
約1,300㎡の面積に、フェンスで囲まれた犬用の15区画の寝場所と運動場ができあがりました。運動場には、日よけと雨よけを兼ねたテントも張られました。
猫の飼育場は、6畳ほどの小屋が2棟建てられました。そして、小さなトンネルをくぐれば、施設のはずれに作られた専用の遊び場に行けるように工夫をこらしました。
(太郎の会ホームページより)
しばらくは平穏な日々が続きましたが、梅雨の季節、6月に入ると、島原地方には大雨、洪水警報が出され、避難勧告も多くなりました。
6月22日から24日にかけて、中尾川上流に火砕流が連続して起こり、30戸の家が焼失し、住民の命も奪ったのです。
続く6月26日、水無川上流でも火砕流が発生し、7月には大雨による土石流が水無川、中尾川を流れ下って、島原市の中心部を完全に孤立させました。
またしても被災地が広がり、家を無くした動物たちも増えたのです。
被災地と被災者の救済はすぐに始められるでしょうが、人間が暮らしの立て直しに懸命になればなるほど、その陰で、動物たちは見捨てられていく・・・・、今井さんと渡辺さんは、これまでの保護活動の経験から、こころが萎えるような思いで、次々と入るニュースを聞いていたのです。
1994年
1994年6月までの3年間に、大小合わせて約8,850回の火砕流が発生し、住宅など810棟が焼失、土石流では1,300棟が損壊しました。そして、被災地は水無川から中尾川、島原市北部の湯江川(ゆえがわ)にまで広がっていたのです。自宅に戻れない人も、789世帯の3,307人に達していました。
火山活動がいつ終息するのか、どこまで被災地が広がるのか、予想がつかない状況下で、増え続ける被災動物たちと、それに加えて産まれ続ける二世、三世の犬や猫たち。
このような事態は、島原だけに限ったことではなく、火山と地震の国、日本のどこででも起こりうる状況なのです。
「雲仙通信」3号には、飼育場移転に寄せられたカンパやはげましへの感謝が綴られ、最後に今井さんの思いが記されていました。
「全ての動物に里親が見つからなかったら、その後、動物たちはどうなるのか?」この問いが、みなさんからもっとも多く寄せられています。
私たちスタッフにとっても、この点がいまもっとも気がかりになっています。
私たちが「多くの動物をかかえている」ということがどんな意味をもつのか?もう一度みなさんと考えてみたいのです。
私たちの活動は、特別な志をもつ一部のものがしているのではなく、被災動物をただ、心から気遣う大勢の人々の活動と言っていいと思います。
このような、利害を越えて動物たちを救おうという活動の形は、日本では珍しいものです。そして、もしかしたら、遠い将来にようやく実現するかもしれない新しい保護活動を、数年後には達成できる希望も秘めたものなのです。
(参考図書)
「被災地の動物をすくえ!-雲仙・普賢岳で活動するボランティア」森下研著、PHP研究所刊
「雲仙被災動物を救う会」は、その後、「太郎の会」と名称を変え、今井眞さん、渡部りえさんは、被災動物の保護活動を続けました。雲仙通信も、「太郎通信」に変わりましたが、その中に、産まれたばかりの動物を施設に捨てていく人たちがいることへの落胆の気持ちが綴られていました。
2005年現在、犬210頭、猫60頭を保護しているという情報まではトレースできましたが、それ以降、ホームページは更新されていないようです。