犬を擬人化してしまうのは、日本人だけに限ったことではありません。人は無意識に、相手が犬であっても、自分が持つ人間としての感覚で考えてしまうので、「こんなふうにされたら、自分だったら嫌だろうな」と思うと、かわいそうで犬をしつけられないのです。
日本では、「盲導犬は視覚障害者のために働かされるので、早死にしてしまうらしい」といった話がまことしやかに語られます。盲導犬として働く期間は8~10年で、盲人の安全や犬の身体的な負担を考慮して退役させた後は、退役犬の飼育ボランティアの元で余生を過ごし、犬の平均寿命ぐらいは十分に生きるそうです。
視覚障害者にとって、盲導犬は一緒に暮らす仲間であるとともに、白い杖のかわりに道具として割り切って使うという意識を持たなければならないものです。ハーネス(胴輪)をつけてユーザーのために働いている時の盲導犬は、かわいがる対象としてのペットではありません。にもかかわらず、通行人が仕事中の盲導犬に食べ物を与えようとするのを断ったりすると、「大事にしていない」とか「かわいそう」と非難されるそうです。しかも、そのようなけじめを理解してくれない人には、犬好きの飼い主が多いのです。
盲導犬に対する困った対応や誤解は、福祉の立場から盲導犬に与えられている役割をよく理解していないということの他に、人と動物との間の距離やけじめというものを、愛犬家と呼ばれる人たちが分かっていない、あるいは持ち合わせていないということも影響しています。
日本人の国民性としてのやさしさゆえに、かわいそうと思ってしまうのかもしれないのですが、全く違うものであるはずの愛情と憐憫の情、しつけといじめとの間に、きちんとした境界線が引けていないのが問題です。
しつけができないというのは、犬に限ったことではありません。子どもに対しても、しつけができない親が多くなっているという指摘があります。
例えば、食卓でのしつけに関して、親は子どもが一度「イヤ」と言ったものは、「どうせ食べないから」とか「ムダだから」と簡単にあきらめてしまって、「がまんして食べなさい!」ときつく言うようなことがなくなっています。子どもの健康や人間としての成長を考える前に、面倒なことや親子の摩擦や葛藤を避けようとするのです。子どもに対するしつけを、押しつけや強制と同じだと思ってしまう考え方は、全てにおいて、子どもに真正面から向かい合うことを避けるという姿勢をとりがちです。
今、日本では、米国のイアン・ダンバー博士などが提唱する「ほめてしつける」というメソッドが、犬のしつけ方として主流になっています。好ましいことができたらほめて、それを習慣化すれば、結果として困ることはしなくなるという考え方が受け入れられたからですが、かつて行われていた強制訓練型の「犬を叱ってしつける」というやり方には、心理的な抵抗を感じるということもあるのではないでしょうか。
犬特有の行動パターンをよく理解していない飼い主は、犬が人間的な感じ方や考え方をしていると思い込んでしまうために、犬を擬人化しやすいと言われます。実際にはそうでなくても、犬が人間の行動を真似しているように見えることがあると、犬を擬人化してしまいます。そして、擬人化が犬を甘やかすことになります。
犬は、欲求を満たしてもらうために、飼い主を訓練します。あるコリー犬は、冷蔵庫のドアを開けて吠えることで、飼い主に食べ物をねだるようになりました。犬は、飼い主がいつも冷蔵庫を開けて食べ物を出しているのを見ていて、それを学習し、飼い主を訓練したのです。
飼い主の関心をひきつけるために、足をひきずって病気を装うような犬もいます。それがまんまと成功するのは、飼い主が犬を子どものように思って、接しているからです。しかし、犬の動物としてのほんとうの価値を理解していない接し方は、犬の幸せを損なうことになりかねないのです。