疲れているのに、今日も5時前に目が覚めた。1階に降りて、タバコを吸うと正面のソフトクリーム等売っている店が営業していた。MyAsaというお店だ。無農薬米のおにぎりやコーヒーを販売しているテイクアウト専門のお店で、ソフトクリームも有機栽培のお米の甘酒と有機豆乳からできたているらしい。朝の4時から15時まで営業している。田辺の人は早起きなのか、飲み明かしてシメでいただくのか・・・
二度寝しようとしたがすぐ目が覚める。6時半になって、朝の散歩に出ることにした。ここもキーボックスに鍵を返すだけなので、気楽に外出できる。写真は駅前の弁慶の像。田辺は弁慶生誕の地として有力視されおり、一説によると、弁慶は熊野別当の嫡子として誕生。幼名は鬼若(牛若丸より強そう)とされた。田辺市では10月に弁慶まつりが開催されるらしい。
弁慶ゆかりの神社があるようなので、行ってみることにした。鬪雞神社と言うらしい。
鳥居をくぐると朝早いのに、それなりに参詣者がいた。
拝殿。鬪雞神社は、通称「権現さん」と呼ばれ、御祭神の中に熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を勧請しいている。三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在らしい。
拝殿の後ろの柵の向こうには社殿6棟。本殿の祭神は、伊邪那美命、黄泉の神だ。西殿には、速玉之男命、熊野速玉大神と関係がありそうだ。
鬪雞神社の名は平家物語壇ノ浦合戦の鶏合せの故事に由来するとのこと。源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当・湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせた。すると、ことごとく白(源氏)の鶏が勝利したため、源氏に加勢することを決め、熊野水軍200隻を出陣させた。
ところで、この像だが、湛増の後ろに弁慶が立っている。源義経の使者として、援軍要請に来たのなら、息子の頼みである。闘鶏などせず、源氏に味方すればよさそうだが、弁慶は京の五条の橋の上で刀集めをするような放蕩息子であり、あっさり頼みを聞けなかったのだろう。一方、弁慶は持ち前の眼力で平氏の鶏を萎縮させ、負けるように仕向けた…というのは、筆者の勝手な妄想である。
その鶏が木にとまっている像もある。
神社の奥の池にある鶏姫弁財天社。祭神が市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)、厳島神社や江島神社等と同様、弁財天と習合しているようだ。
南方熊楠顕彰館に行ってみる。
10時から開館なので、入ることはできないし、7時半なので、それまで待つわけにもいかない。残念だが、外から見るだけに留める。
南方熊楠については、朝日ソノラマ社が出しているサンコミックス、水木しげる短編集 奇人変人伝に「怪傑くまくす」という作品が収録されている。ロンドン時代の蛮行、孫文との交流、田辺での奇行等、水木先生にかかれば、田辺市の偉人も妖怪じみてくる。
「怪傑くまくす」では、余り触れられていないが、南方熊楠といえば、粘菌の研究が有名だ。粘菌には真正粘菌と細胞性粘菌とに大別されるが、熊楠が研究したのは真正粘菌である。真性粘菌は、カビのような形態をしており、ホコリカビ等と呼ばれる。胞子嚢を持ち胞子をばらまくのだが、①胞子の細胞壁を破ってアメーバ状細胞が出てくる。②細胞は分裂により増殖し、飢餓状態になると細胞が集合し、ナメクジのような移動体となる。③移動体はカビのような形にもどり胞子を形成する。植物的なものから動物的なものに変化し、アメーバ状の細胞は接合という有性生殖も行う。本当に不思議な生き物である。
アメーバ状態 増殖し集合 移動体 子実態形成 胞子塊形成
南方熊楠の偉業としては、神社合祀反対運動があげられる。1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されることになった。熊楠の反対運動は自然保護運動の先駆けとなった。
南方熊楠顕彰館は、2006(平成18)年5月14日にオープン。南方熊楠邸も復元されていて比較的新しい。一方、白浜町にある南方熊楠記念館は、1965(昭和40年)年4月に開館している。
1924(昭和4年)年に昭和天皇が、行幸された際に南方熊楠が神島の案内をした。1962(昭和37年)年、再び昭和天皇が、行幸され、以下の御歌を詠まれた。
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
このことがなければ、記念館もできず、ただの変人学者として歴史に埋没していたかもしれない。もちろん「怪傑くまくす」も執筆されなかっただろう。
ホテルに戻り準備していると8時出発になった。ホテルNANKAIROは、昭和6年に南海楼旅館として創業した老舗らしい。













