雨。7時半旅館千代乃屋発。
昨日はお客さんがたくさんいたのに、今日は寂しく雨に濡れるシーボルトの足湯。
嬉野市街をぬけると、轟の滝公園。 高さは11mで、三段の轟の滝は、なかなか見応えがあり、公園もよく整備されている。
公園内には、斉藤茂吉の歌碑がある。
「わが病やうやく癒えぬと思ふまで嬉野の山秋ふけむとす」
斎藤茂吉は、大正9年、長崎医専の教授をしていたおり、体調を崩し、雲仙温泉、古湯温泉、嬉野温泉などを渡り歩いて療養したそうである。アララギ派の歌人として教科書にものっている人物であるが、筆者としては作家 北杜夫の父君という印象が強い。
県道34号線の坂道を雨にうたれながら登ると、「長崎県 東彼杵町」の標識。ここを過ぎれば九州島全県回ったことになる。
雨に打たれながら長い下り坂を降りて行くと茶畑が広がっている。
道の駅彼杵の庄に着いたのは、9時半。東彼杵茶は日本一だそうである。また、クジラの絵も描かれている。江戸時代初期から大正期まで、300年以上の間、クジラの集散地として栄えた東彼杵だが、捕鯨技術の進歩により、水揚地が福岡、下関などへ移転。この半世紀は欧米の反捕鯨運動の影響もあり、往時の捕鯨業の隆盛はみられないがクジラの食文化が根付いており、今でもクジラの市が残っているとのこと。ここで、しばらく雨宿りをさせていただいた。
海沿いの国道205号線を佐世保方面へ、雨は小降りになったが、大村湾はどんよりしている。
川棚町に入るとようやく雨がやんだ。片島公園の看板があり、孔雀もいるみたいなので寄り道することにした。 リサイクル工場の独特の匂いのする坂を降りると片島公園駐車場の看板。
その先には、雑草が生えている広場、たった一つのシーソーが寂しく草の中に残されていた。
かつては、ここにたくさんの孔雀がいたのだろうか。ふと、別府貴船城の下でショーをしていたフラミンゴがある日いなくなってしまったことを思い出した。片島ドリームランドと書かれた白色の球形のものが置かれていた。まさに夢幻のごとくなりである。
駐車場に戻るとトイレは別の名前の公園にあるとの表示、さらに1台の車が直進してきたが、途中でバックしてトイレがある方向に曲がっていった。念のため住宅地をぬけ行ってみると漁港。おしゃれなカフェもあり、さらにその奥に片島公園。なんとややこしい。
もとは島だった片島に1918(大正7)年、片島魚雷発射試験場が完成、旧日本海軍が佐世保の海軍工廠で製造した魚雷を実際に発射して性能試験を行う場所となった。太平洋戦争中の1942(昭和17)年には埋め立てられ地続きとなり、分工廠が開設された。ここで試験に合格した魚雷は、佐世保鎮守府に納められた。
ここでは、太平洋戦争中、日本海軍のみが完成させ、連合軍に多大な被害を与えた酸素魚雷の発射試験も行われたことであろう。
酸素魚雷とは、昭和8年に完成した魚雷で、それまでの魚雷の推進力は圧縮空気で燃料を燃やしエンジンを回す内燃機関型(熱走式)と、電池によるモーター型(電気式)があった。内燃機関型は、推進力が強いが、燃焼に使われない窒素ガス(空気の約80%)が出るので魚雷の航跡が分かりやすく、回避されたり、特に潜水艦の場合、発射位置が特定されたりした。一方、空気を使わないモーター型は航跡が分かりにくいが推進力が弱く、射程も破壊力にも限界があった。酸素魚雷は、内燃機関型だが、圧縮空気から酸素に切り替えている。酸素のみで燃料を燃やすと出てくるガスは二酸化炭素と水蒸気なので、海水に溶けやすく航跡も分かりにくい。さらに射程も長く、旧日本海軍が世界に誇る秘密兵器であった。
ここは、映画「祈り~幻に長崎を想う刻」のロケ地になったとのことである。他にも細田守監督のアニメ映画「バケモノの子」のワンシーンにも使われたらしい。
魚雷が先端の射場にセットされた場所。ここから打ち出された魚雷の航跡や射程が確認されたのであろうか。
空気圧縮喞筒(そくとう・しょくとう)所跡、天井が落ちて、中に木が生えている。魚雷に圧縮空気や酸素を充填した場所らしい。
遠くに探信儀領収試験場の遺構が見える。探信儀はレーダーのこと。工場から領収したレーダーをテストしていたのだろうか。
なかなかの名所である。公園として整備されているのもうれしいし、建造物が改修などで整備されすぎていないのもまたうれしい。
国道205号線に戻って案内板をよく確認したら、孔雀は次の信号を左折した大崎自然公園にいるらしい。 孔雀の無事をこの目で確認するため、行ってみようと思ったが、雨が降り出しそうになってきたので断念。それにしても気になるのが片島ドリームランドである。