半年後に中学受験を控えるお嬢さんを持つ友人と話す機会があった。

受験にとって要とも言われる夏休みに、やる気が出なくて、受験はやめると言い出したという。
何のために受験をするのかわからない、もうやめたい、と言うのだそうだ。

ここまで親子で頑張って、なんとかこのまま続けて、どこかご縁のある中高一貫校に入れて、高校受験の心配なく過ごさせたい、と思う親心。

でももうヤル気がどうしてもでなくて、疲れが出始めている娘。反抗期に入る年齢でもあり、大変そうだ。

「負けても全然悔しがらないの。うちの子。」と彼女は言う。

この子の他の兄弟も、母親である彼女自身も、負けず嫌いの気持ちにハッパをかけることで、いつも頑張ってきたそうだ。

だが、娘は負けても平気で、一体何を考えているのかわからない。どうやって鼓舞したらいいのか分からず、途方にくれている、という。

その話しを聞いて自分の子供時代を思い出した。
私も負けても平気な子供だった。

やはり、中学受験の時に、父に
「お前はなぜ負けても悔しがらないのか⁉︎」
とよく怒られたり、ため息をつかれたりした。
うちの父にとっても、私は理解不能だったようだ。

友達が成績優秀者リストに名前を連ねているのを「〇〇ちゃん、すごいすごい!」
と喜んで騒いでいると、父が
「この子の負けん気を引き出すにはどうしたらいいのだろう」
とぼやきながら、途方に暮れていたのを思い出す。

そこで私は彼女に言った。

「私もね、負けず嫌いではなかったの。だから娘さんの気持ちがわかるわ。それにね、父が私に負けん気を植え付けようとすごい頑張って、うまく行かなかった経験から言うけど、それは性格で、多分一生かわらないから。」

「負けず嫌いじゃなくて、どうやって、ヤル気を出してきたの?」

と彼女。 

言われてみると、マイペースで、のんびり屋の私に、物事への取り組み方を教えてくれたかたがいた。

10歳か11歳の頃、ピアノの先生に諭されたその言葉は、負けず嫌いではない私の胸にも響き、今でも、物事に取り組むときの原点になっている。


絶対に声を荒げて怒ることのない先生だった。
その先生が諄々と諭してくださった言葉は、どんな叱咤激励よりも、私の中に根を下ろし、行動規範ともなっている。

当時、それまでのスパルタ式のピアノの専門教育を受け、恐怖から練習していた私は、より高度な専門教育を受けるために、その先生に教えていただくことになったのにもかかわらず、先生が全く怒らないのを知り、心から安堵し、全く練習しなくなった。

そんな時、先生は、悲し気で思案するような様子でしばし考えた後、以下のようにおっしゃった。

「私達はみんな、神様から贈り物をいただいて、生まれてきます。

その贈り物を通して、世の中の役に立つためです。

だから、贈り物は人それぞれ違いますが、誰もが、贈り物をもらっています。

神様からの贈り物をもらっていない人は1人もいません。

そして、生まれる時に、「この贈り物を大事に磨いて、きっと世の中の役に立つように頑張ります」と神様と約束して生まれてきます。

だから、私達はだれでも、神様からいただいた贈り物を探し、それを見つけたら、それを磨く努力をしなくてはいけません。

いただいた贈り物に相応しい努力をして、その贈り物を磨き、それを通して世の中に還元する義務があるのです。

神様があなたにくださった贈り物は、音楽を理解し、表現する力ではないですか?

なぜ、あなたはせっかくの贈り物を粗末にあつかうのです?

なぜあなたは、自分が与えていただいた宝物を磨く努力をしないのですか?

いただいた贈り物に恥じないよう、努力し、精進しないといけません。

何故なら、その贈り物は、あなたなら、それを磨いて、世の中の役に立つように使ってくれるだろうと、神様があなたを信頼して与えてくださったものだからです。

『有益に使います』と神様と約束して授かった贈り物なのです。

あなたは、神様との約束を守らないのですか?
神さまを裏切るのですか?」

そんな内容だったと思う。

先生はヨーロッパ人なので、キリスト教的価値観が根底にあったのだろう。

とにかく、それは、そういう考え方に馴染みのなかった当時の私にとって、脳天を打たれるような衝撃だった。



‥‥


10歳か11歳の時、このように諭されて以来、この言葉は私の中に深く根を下ろして、
今でも自分の行動規範の根底にある。


そして、それから月日を経た今、思うのだが‥


贈り物は、プラスに見えるものばかりではないと思う。

なにがしかの苦難や逆境に見える場合もあるだろう。

でもそれを、自分同様に苦しむ他人と分かち合ったり、乗り越えた体験を伝えて、他の人を励ましたりすれば、それすらも自分に与えられた贈り物を世の中に役立てたことになる。

自分が天から与えられた贈り物をいかに活用して世のため人のために還元するか。

よくよく考えれば、あらゆるもの物事が贈り物だとも言える。

「負けず嫌い」も、他人を見て奮起できるという贈り物。「負けず嫌いじゃない」のも、いつも人の成し遂げた成果を一緒に喜び幸せでいられるので、それだって贈り物だ。

私達に与えられた贈り物に気づき、感謝し、それを良い方向に使って、世の中に還元する。

その機会はいつも豊かに与えられており、

そのチャンスを生かすも殺すも、すべては私達の手中にあるのだ。