悪いことをすると
「バチが当たるよ!」

昔はよくそう言いました



罰はもちろん神様が与える。



昔はそれで良かった



でも考えてみたらこんなに人間がいて、一人一人を眺めて、



こいつは許さん!罰を当てよう

こいつには褒美をやろう

こいつはもう少しこのままで頑張ってもらおう


そんな風に考えるものでしょうか?




・・・それが神様の仕事?
えーなんかヘンだよーと子供の私は思った。






神様がそれを仕事にして、私達の成長の為にバチをくださる。と思う人はいるでしょう。
・・・かなり厳しい神様ですよね?





人生の辛い時にはみんなそう感じる
(なんで神様はこんな試練を!と呟きます)







私たちは罰を与えられるためではなく
神様も裁判をするためにいるのではありません




共に存在したくて、私達を存在させた







私達が失敗する(思い通りにならない)レベルにいるのは、私達でも分かってます。
神様に罰されずとも、
既に失敗は自分が罰してます。



それで十分です。





そして、私たちがバツ(失敗)だと考えることは単に物事の結果でしかない。





種を蒔けば、収穫できる
これが結果です。たまには思いがけない結果もでます。





ここに秘密があります。
私達は同意できる結果を成功と意味付けします。




結果は経験しないと分からない人もいますし、
やってみなければわからないところに人生の意味はあります。





結果だけに注目し、失敗したことをいちいち咎めてバチを当てるなんて、これは短気な親のすることでしょう






つまり私たちは神様を親と同じように考えています





愛されるためには頑張らなくてはいけない





失敗はダメ




親のいいなりにならないと、愛されない。
ありのままではまずい・・・だから苦しい。






失敗は罰だと無意識にまで浸透した。
だから失敗すると自分のココロが疼くから、親のように他人も責めずにはいられない。





その時は失敗でも、ずっと後になって、感謝できる出来事に変わる時もあります。






それでも罰は神や他人から与えられたと信じる人は、自分の責任で起きた結果を、人に解決して欲しいから。(人の言うことを自分の意思にしていた)





自分のせいにすると、自分の選択した人生が誤りだったと、アイデンティティーが根底から崩れるのが分かってるから。





自分を疑わなくてはならないから





愛は罰を与えるくらいなら、より良い方法を教えてくれる。




失敗としか思えない事から、大きな成功さえ
つかませてくれる





だから愛の考え方に失敗はなく、より深く問題と向き合うことを勧めたり、場合によって止めさせる方向に導く場合もある。





どれもプロセスに過ぎないんだよ。






罰を与えて人が苦しむのを痛快に感じるのは、
人間だけだから。




自分や誰かに、こんなことして!と責めないで。




ただ、止めたほうがいいのに、わがままで続けるなら、結果を想定したほうがいいし、取り返しがつかない結果が分かるなら、もう止め時ですよね?






mio 翼翼