今日、私たちは、イエス・キリストの聖心の祝日という、深い精神的な意義を持つ日を祝うために集まりました。この祝日は、私たちにキリストの深い愛について考えさせるものです。その愛は、私たちの救いのために刺し貫かれたキリストの心臓に象徴されています。ヨハネによる福音書19章31節から37節の朗読は、この愛について痛切な洞察を与えてくれます。

この箇所は、イエスが十字架刑に処せられた場面を描いています。イエスがすでに息を引き取っていたため、預言を成就し、本当に死んだことを証明するために、兵士が槍でイエスの脇腹を刺しました。血と水が流れ出た瞬間は、肉体的にも精神的にも象徴的な意味を持つものでした。イエスの脇腹から流れ出た血と水は、聖餐式と洗礼の秘跡を意味し、信仰によって清められ、養われる手段そのものです。

しかし、この厳粛さの核心である「心」について、さらに深く掘り下げてみましょう。イエスの心は単なる象徴ではなく、イエスの無限の愛と慈悲の真の表現です。それは私たち一人一人に対する思いやりで鼓動する心であり、私たちの痛みを感じ、私たちの喜びを喜ぶ心です。それは私たちを神へと近づけること以上に何も望まない心です。

この厳粛な儀式は、キリストの愛の深みに触れるよう私たちを招いていることを強く思い起こさせます。聖なる心は、イエスとのより深い親密さを呼びかけ、イエスの愛を信頼し、その愛を私たちの生活の中で反映するよう促します。しばしば分裂、苦痛、苦悩に満ちたこの世界において、イエスの心は平和の避難所と癒しの源を提供しています。

私たちは、神聖な心の中に、キリスト教徒としてどのように生きるべきかを完璧に示す模範を見ることができます。イエスの心は赦しの心であり、私たちの罪を赦し、忘れることを常に望んでいます。それは寛容の心であり、見返りを期待することなく常に与え続けます。それは謙遜の心であり、私利私欲を一切考えずに他者に奉仕します。それは、私たちが日々の生活の中でこれらの美徳を実践し、周りの人々にイエスの愛の灯台となるよう呼びかける心なのです。

私生活では、私たちはしばしば苦悩や苦難に悩まされます。時には乗り越えられないと思えるような困難に直面することもあります。そのようなときこそ、私たちはイエスの聖なる心に目を向け、慰めと力を求める必要があります。イエスはご自身でこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエスの心は常に私たちに開かれており、限りない愛と慈悲をもって私たちを迎え入れてくれます。

イエスの聖心について考えるとき、私たちもイエスのような心を持つよう求められていることを思い出しましょう。思いやりがあり、愛にあふれ、無私無欲に他者のために尽くす心。純粋で心を開き、神の恵みを受け入れ、周りの人と分かち合う心。

この愛を心に育む努力をし、他者との関わりにおいてより忍耐強く、優しく、理解ある人間になりましょう。 どこへ行ってもイエスの愛を広める、神の平和の道具となるよう努めましょう。

最後に、至聖なるイエス・キリストの聖心の祭日は、神が私たち一人一人に抱く限りない愛を力強く思い起こさせてくれるものです。この祭日は、私たちにその愛に身を浸し、その愛によって心や人生を変えていくよう呼びかけています。この祭日を祝うにあたり、私たちは、救い主の心から深く愛されていることを心に留め、日々の生活の中でこの愛を実践していくことを改めて誓いましょう。

イエスの聖なる心が私たちの導き手となり、避難所となり、その愛で私たちの心を満たし、私たちを神へと導いてくれますように。