いよいよ天竺です。ただ、仏教徒自らが住んでいる場所なので、当然ですがそれぞれの場所の位置だの大きさだのを今さら書かれることがほとんどありません。なので仏教須弥山世界の一部としてざっと地名を紹介するだけにします。下手すると「インド仏蹟地理案内」になってしまいますが、そっちの流れには行きたくないので。

 

ひとまず世界の中心・金剛座がある伽耶について

伽耶(がや)

摩掲陀国の西部、尼連禅河(Nairañjanā 現ファルグ川)のほとりにある町が伽耶城(Gayā-nagara)です。現ビハール州マガダ地方ガヤー県ガヤサダル郡に所在します。仏典に時々顔を出しますが、この町自体の目立った記述はありません。

伽耶山頂(がやせんちょう)・象頭精舎(ぞうとうしょうじゃ)

伽耶城の南にある丘陵(現ブラフマヨーニー丘陵)が伽耶山ないし象頭山(Gayā-śīrṣa)で、その頂上一帯が伽耶山頂ないし象頭精舎(Gaya-śiras)という聖地です。『伽耶山頂経』で悟りを開いたお釈迦さんが千人の比丘にいわゆる「火の説法」をした場所として記述されています。もともと聖地として名高く、『ヴァーユ・プラーナ』ではヴィシュヌ神がアスラを封印した山とされており、『リグヴェーダ』サーヤナ注ではヴィシュヌ神が3歩で世界を横断した際に3歩目に踏んだ山としています。『マハーバーラタ』でも東方の聖地として列挙され、山頂にはブラフマシャーラという神池があるとしていますが、仏典にはこの池の言及はないようです。

 

現在は「ブッダ公園」という住民向けの緑地に整備されています。

菩提道場(ぼだいどうじょう)

伽耶城の南すなわち尼連禅河の上流にあるのがお釈迦さんが悟りを開いた地である菩提道場(Bodhi-maṇḍa)です。現代では「ブッダガヤ」という地名で知られていますが、仏典にはこの名称は出てきません。ですので須弥山世界としては菩提道場です。現在の地名だとファルグ川の上流で東のモハナ川と西のリラージャン川の二股に分かれる合流点西岸に所在しています。仏典だとファルグ川・リラージャン川いずれも尼連禅河としているようです。分岐するモーハナ川は『大唐西域記』では、莫訶河という名称がありますが、ただこれ梵語で「大河」という一般名詞なので具体的な川の名前というべきかは微妙です。

 

菩提道場の象徴は、お釈迦さんが樹下に座った菩提樹(ぼだいじゅ Bodhi-vṛkṣa)と足下の金剛座(こんごうざ Vajrāsana)です。

 

菩提樹は、『大唐西域記』によればお釈迦さんの時代は数百尺(唐尺で百数十m)のあったとのこと。たびたび伐採されたけど切っても燃やしても芽が出てきて復活し、三蔵法師が訪れた時には高さ4~5丈(12~15m)とあります。

 

1861年に菩提道場を再発見した大英帝国のカニンガム卿の『マハーボーディ寺あるいはブッダの大いなる悟り』には、1876年に菩提樹が倒伏した際も、すぐに次の苗木が生えてきたという聖樹の妙を伝える記述があります。

そして2009年時点の菩提樹。高さというより横にでかいです。

 

金剛座はお釈迦さんが座った地面なんですが、悟りを開いたことで特別な場になりました。『大唐西域記』では一辺数百歩(百数十m)とのことですが、これだと現在の金剛座のまわりの大菩提寺の敷地の大部分を含んでしまいます。三蔵法師の時代は金剛座の範囲の定義が今と違っていたのかも。

 

『倶舎論』によれば、地下40,000由旬を貫いて金輪の支持層から基礎がつながっており、菩薩はここに座すことなしに正覚を得ることはできないとしています。この大きくもない仏跡が須弥山世界論で特筆されていることについては『正法念経』で、南贍部洲は他の洲のような楽園ではないけれど、思惟修行して梵行を習得できるのは南贍部洲だけであり、だからこそ金剛座ができて仏が生まれた。この点で南贍部洲は他のどこよりも優れているのだとしています。つまり金剛座こそ南贍部洲のアイデンティティということですね。

 

そして、なぜこんな岩盤支持層が必要かといえば、『大唐西域記』によるとお釈迦さんが別の場所で前正覚山で悟りを開こうとすると大地震が起こりかけたので、金剛座までたどりついて悟りを開いたとのこと。『遊行経』にも菩薩が正覚を得るときには地が大震動を起こすとの記述があり、下手な場所でうっかり悟りも開けないようです。

 

『仏本行集経』では、金剛座には16もの功徳があるとしていて、南贍部洲の中心にあって金剛でできており、劫初に最初に生成され、劫末に最後に消滅する場所であり、平坦で高くも低くもなく清浄で、香草や蓮華で満たされているなどなど書かれています。また、金剛座での出来事は全ての聖人に周知されるとしています。お釈迦さんが金剛座で悟りを開くとブラフマー神とか第六天魔王とかがすぐに次々やってきたのは、ワールドアナウンスがかかったようです。

 

しかし、南贍部洲の地下には八大地獄が広がっているので地獄の真ん中を金剛座の基礎が貫いていたら邪魔ではないかなあと思ったり。

 

19世紀に再発見された金剛座です。寸法とかはまあいいとして、石造りなのは変ですね。「金剛」を比喩表現と取る人もいるようですが『倶舎論』にも『大唐西域記』にも材質として「金剛でできている」とはっきり書いてあるので、ダイヤモンド製でないとおかしいです。

 

その他にも、お釈迦さんが悟りを開いた四十九日(七七日)を過ごした仏跡として

  • 不瞬眼塔(Animiṣa-nayana)
  • 経行処(Caṅkrama)
  • 難提迦村主家(Nandika)
  • 羊子種樹(Ajapāla-nigrodha ヤギ飼いのベンガルボダイジュ)跡
  • 目真隣陀樹(Mucalinda コサガリバナ)跡、目真隣陀池(竜王宮)
  • 羅闍那樹(Rājāyatana インドウミソヤ)跡

があり、(漢名は『仏本行集経』の記載に統一しました。)三蔵法師もいくつかの仏跡に言及しています。ただそもそも七七日の事績については諸経でかなりばらつきがあり、整理されたのは結構後っぽいので、聖地として踏み込むのはやめておきます。

 

なお、『八十華厳』『延寿妙門陀羅尼経』では、菩提道場には「普光明殿」なる楼閣や大霊塔があることになっており、お釈迦さんの説処となっています。菩提道場の近くに楼閣や大塔、すなわち現在の大菩提寺が建てられたのは『阿育王経』によればずっと後世のことで、お釈迦さん存命中にそんな立派な施設はなかったはずです。

 

実は上記の二経典、どちらも梵語原典が残っておらず、複数種の漢訳だけが残っているものです。そして、異訳の方を見るといずれも普光明殿など存在せず、菩提樹下で説法したことになっています。

 

してみると憶測ですが、菩提道場に壮大な寺院が建設されたことを知っていた後世の漢訳者が、菩提樹とだけあった原典をふくらませて楼閣を作り上げたのではないかと。

 

ただ、実際に経典に記載がある以上、史実がどうあれ仏教須弥山世界には「普光明殿」があると考えていいのです。世界は広げましょう。

優楼頻螺(うるびんら)

菩提道場から見ると尼連禅河の対岸、リラージャン川とモーハナ川の合流点の砂州にある村落が優楼頻螺(Uruvilvā 「ウルヴェーラー」は南伝仏典での名)です。ここにある苦行林(tapovana この語自体は地名でなく一般名詞です)でお釈迦さんが激しい苦行をしたことで知られます。ただ『大唐西域記』では金剛座の南、尼連禅河の左岸に苦行林があることになっていて、伝承も揺れがあるようですね。

 

対岸の菩提道場もそうなんですが、河川の合流点の水場なんて日本人が考えるとアホみたいに虫が湧いて修行や思索には全く向いてないように思えます。ただ『仏本行集経』ではお釈迦さんがここにたどり着いた時に「土地が平坦で、各種の樹木がそろっていて、河川が澄んで渡りやすく取水しやすい。禽獣が豊富で、蚊やアブ、諸虫やサソリがおらず、集落は遠からず近からず、托鉢の行路は便利で、昼は人の往来がなく夜は騒音がない。」ということを修行の適地としています。確かに河畔が適しているように思えますが、蚊が出ないというのは何か自然条件があるんですかね。

 

仏教が成立すると静慮ができる寂静処(aranya)であることが重視され、祇園精舎も竹林精舎もより閑静な林地に作られています。

 

ここはお釈迦さんが村娘のスジャーター(Sujātā)から乳粥(pāyāsa)をもらった故事でも知られており、ブッダガヤのホテルに泊まると朝食に乳粥が出たりするそうです。なんだかね。

前正覚山(ぜんしょうがくせん)

尼連禅河の右岸を北東に行ったところにあるのが前正覚山(Prāg-bodhi 現ドゥンゲシュワリ丘陵)です。ここで悟りを開こうとして場所を移動したのは前述の通り。この山については仏典の記載はほぼなく、三蔵法師による現地インドの伝承に依っています。『大唐西域記』では、この山で悟りを開かないことを残念がった鎮山の竜王を慰めるため、影だけを洞窟に残した「留影窟」について紹介があります。今も洞窟はあるようですが、北伝、というか中国仏教だけに知られた故事なので、巡礼に来る南伝仏教の信者には「修行をした洞窟」以上の認識はないようです。

 

鶏足山(けいそくせん)

尼連禅河の右岸を南東に行くとあるのが鶏足山(Kukkuṭapāda-giri 現グルパ山)です。『釈迦方志』では、三つの尖峰があるため鶏の三本足にちなんだとか。大迦葉が釈迦入滅20年後に入滅した地として知られていて、大迦葉が登ると峰が割れて座処が現れ、そこで入滅すると峰が閉じて体を覆い隠したそうです。『大唐西域記』ではこれを記念して山頂に仏塔が建てられたとの記述がありますが、上の写真の通りしっかり残っています。ちなみに『阿育王経』では大迦葉入滅の際にも地震が発生したそうです。重要な時に何らかの天祥を起こすのは古今の神話宗教に共通ですが、災害を起こさない天祥にしてほしいですね。

 

『義林章』には、お釈迦さん入滅の後、大迦葉が後継者と目されていたのに高弟たちが上座を名乗り始めたため、恨みを抱いてここで死んだという生々しい話が載ってますが、これインド仏典に典拠がある話なんでしょうかね…