引き続き、四大洲の総論でそれぞれの形状です。
1つ前で記載した通り、四大洲の形状・サイズも経典によって違いますが、ひとまず細かいサイズまで書かれていてちゃんと図にできる『倶舎論』ほかの形状を以下に挙げます。
両脇の中洲は『立世論』の四鳥洲に合わせて直径1,000由旬の円形にしてますが、これは便宜的な形で。台形の高さは書いてませんが、計算上1,733由旬になります。
正方形の北倶盧洲と円形の西牛貨洲は説明不要と思います。
「半月形」の東勝身洲、これは西辺が2,000由旬で東辺350由旬になってるので、半円ではなく東西が直線で南北が曲線のちょうどアルファベットの「D」のような形をしていると考えるべきでしょう。で南北辺がどんな曲線なのかははっきりしませんが、楕円弧だと考えると、上記のような図形になります。円弧の長さが2,000由旬として計算すると楕円の長軸半径は1,652由旬の計算になります。
で南贍部洲の「車箱型」ですが、『倶舎論光記』ではインドの車は前が狭くて後ろが広いので台形のことだと説明しています。『起世経』では「婆羅門車」とあるので高級乗用の四輪馬車のことかも。だとすると、乗り心地とステアリングのため、前輪は小さく車軸の幅も狭く、後輪が大きく幅を広い車のことを指しているのでは。
こんな感じ。真上から見れば確かに台形ですね。
ただ「śakaṭa」は、どちらかといえば馬車より荷車を指すことが多いようなのと、南贍部洲各辺が2,000、2,000、2,000、3.5由旬で限りなく正三角形に近いので、馬車にはあまり似ていないというのが問題です。また、南伝『大典尊経』によると南贍部洲の南側は「mukha」(先端・頂点)になっているとの記載で、台形より三角形で考えられている節があります。(なにより実際のインドの形がそうなってますし。)
そこでもう一説として挙げておくと、インド独特の荷車にこんなのがあります。
真ん中に轅を通して両側を人馬で曳けるようにして、作りを簡素にするため荷台の枠と轅を一体にしてしまって、三角の荷台にするわけですね。これならインドの形そのままです。これが正しいかは分かりませんが、一つの考え方で。
ちなみにはśakaṭaは軍事用語として「鋒矢の陣形」という意味もあるようなので、そっちを意味しているとしたらこれもまさに三角形ですね。
そして四大洲が鹹海の東西南北方向にあるのはいいとして、どのあたりの距離にあるのか、実を言うとこれほぼ経典に記述がありません。須弥山図なんかでは鹹海の真ん中あたりにバランスよく置かれていますが根拠はありません。
唯一『立世論』だけが位置関係を示しています。計算がおそろしく複雑なので詳細は略しますが、章によって2種類の位置関係が示されています。
見てのとおり鹹海の一番内側、七金山にほぼ接しているような位置にあります。南贍部洲がこうなので他の3洲も似たような位置で七金山にほぼ張りついているでしょう。
これは後世の人が須弥山世界に抱くイメージと激しく違ってて「なんでこんな変な場所に?」と思われたでしょうし、だからこそ『立世論』というれっきとした経典に書かれた記述がガン無視されて、収まりのいい鹹海の真ん中に配されたと思われます。
ただ、このあたり個人的には思うところあります。アーガマ系の経典の記述なんかが特にそうなんですが、まず須弥山があります。そこから七金山の海・山・海・山があり、大海を挟んで南贍部洲の雪山やら無熱悩池やら香酔山を越えていきます。はい、我々の住む世界にたどり着きましたという説明になってる。要するに須弥山から人界にたどり着く直線ルートの説明が仏教世界論の始まりで、全体像が考えられるようになったのは割と後っぽいんですね。だから南贍部洲と七金山を隔てる鹹海も須弥山を目指すために越えるべき連続した海山の一つに過ぎない以上、そんなに極端に距離が離れてるとは思われてないという可能性はあると思います。
同時にこれは「金輪は丸いのに須弥山・七金山はなぜ四角いのか」の説明の一端にもなるのかなと思ってます。スピ系に詳しい人はご存じかもしれませんが、ラマ教とかヒンズー教の世界観って須弥山世界と似てるけど、ほぼ完全に同心円形にまとまってますし、そっちの方が合理的です。
ただ、昔の仏僧が須弥山への直線ルートからイメージを膨らませたとすれば、途中を隔てる海や山は横に直線状に伸びていると想像するでしょう。そして南贍部洲だけでなく他の三方向も同じようになってるとすれば、四方に真っすぐな海・山があり正方形型の七金山の完成というわけで。







