四天王天の詳細について。

 

四天王天の具体的描写については、諸経にあまり記載がなく、特に「定説」の『倶舎論』に記載がないのが痛いところですが、記載できるかぎりで書きます。(正確には『正法念経』におそろしく長大でおそろしく詳細な、結局構造が全く分からない描写がありますが、ここでの紹介はやめておきます。)

 

まず『立世論』から拾うと、持鬘天、常勝天、手持宝器天、四天王天ともに構造は同じで、外周が城壁で囲まれて天全体が城郭になっています。城壁は幕壁1由旬+胸壁1.5由旬、合計2.5由旬の高さで、10由旬ごとに高さ2由旬の門と高さ1.5由旬の門楼がそびえていると。

試しに一番下層の四天王天(一辺80,400由旬)にいくつの城門があるか計算してみましょうか。門は四隅にはくっついておらず必ず隅から10由旬以上離れていると仮定し、門は高さと幅が同じで門2由旬+左右の門楼3由旬の合計5由旬の幅があると考えると一辺で5,359個、全体で21,436個の城門がずらずらと並んでいることになります。

 

何もない空中に向かってそんなに門ばっか作ってどうするの?と思いそうなものですが、個人的には「なんか分かる」と感じてしまいます。古代インドの建築に特別な知識があるわけじゃないんで、都市国家時代の古代文明の一般論ですが、王の偉大さを示すものは何といっても都市の城壁で、さらにその中でも目を引いたのが、無数の旌旗がたなびき、装飾が施され、兵馬に守られた城門だったでしょう。もしこれを実感として持っている古代人が架空の空中都市を創造し、実用性実現性無視して可能な限り壮麗なものにしたいと思ったら、とにかく城門をたくさん作るというのは自然な想像力の所産だったんじゃないのかなと思います。

 

次にアーガマ系の記述ですが、四天王より下の三天は「階道」で城塞ではなく通路という扱いで、通路の両側が7重の宝牆・垣(vedikā)・網飾り(jāla)・並木(paṅkti)で飾られてるそうです。そして四天王天に至るわけですが、ここから先がアーガマ系の中でも説明が分かれています。

まず一つ目が須弥山から東西南北に離れた場所(『世記経』では1,000由旬、『大楼炭経』では2,500由旬)にそれぞれ四天王の居城があるという説明。須弥山と七金山第一山の持双山は84,000由旬離れているので、居城は何もない空中に浮いていることになります。『世記経』によればそれぞれの居城に階道が伸びているそうなので、須弥山を登って行った階道は空中渡り廊下となって四天王の居城につながっていると解釈できます。

もう一つが須弥山とは別に、七金山の一番内側の持双山山頂の東西南北に四天王の居城があるという(『起世経』『起世因本経』『大論』『瑜伽論』)説です。こっちは狭苦しい須弥山中腹ではなく、広大な山の山頂に居城を置けるので大変居心地がいいと思われますが、じゃあそもそも須弥山の階道はどこに通じている通路なのか、3層の夜叉神達はどこを守っているのか分からなくなります。

 

で、居城ですが東方に持国天の居城(賢上城)、南方に持国天の居城(善見城)、西方に広目天の居城(周羅善見城)、北方に多聞天の居城(可畏城・天敬城・衆帰城)があるとのこと。城の一辺は250由旬(『頂生王因縁経』)、600由旬(『起世経』『起世因本経』)、6,000由旬(『世記経』)、16,000由旬(『大楼炭経』)と様々。四天王の中でも多聞天のみさらに優遇されており、上の3つの城のほか城外に専用の園池を持っており、伽毗延頭(『世記経』では一辺4,000由旬の園林、『大楼炭経』では一辺1,250由旬、高さ250由旬の山)と那隣尼池(『世記経』では一辺40由旬、『大楼炭経』では一辺125由旬)と呼ばれ、他の天王も誘っては神遊びするそうです。

 

四天王の東西南北の配置が初期仏教のアーガマ時代に確定していたのが面白いです。

 

四天王の眷属のいわゆる「八部鬼衆」の名前も『大論』に出ておりますが、そのほかにアーガマ経典には多聞天の眷属の夜叉として「五丈」「曠野」「金山」「長身」「針毛」という5柱がいるという記述があります。こちらは八部鬼衆と違って後世に伝わらず忘却された模様。