以下は余談というか、ただの個人的な仮説。

 

『倶舎論』はじめとする説一切有部系の須弥山のサイズにはちょっと不思議な点があります。

 

1 他経典では全て須弥山山頂は一辺80,000由旬なのに、説一切有部系にのみ一辺20,000由旬に「大幅縮小」された記述があるのはなぜ?(『倶舎論』も一辺80,000由旬としながらも、20,000由旬説も併記している。)

2 説一切有部系のみ四天王天が異常に広くなっているのはなぜ?(一辺80,000由旬の須弥山に長さ16,000由旬の堅手天が張り出しているのは、もはやバルコニーのサイズを超えている。)

3 『倶舎論光記』に須弥山が鼓(つづみ)型、つまり中央がくびれた砂時計型をしているという謎の記述があるのは?

 

仮想世界の寸法なんて誰かがそう決めてしまえばそれまでといえばそうなんですが、この違和感について上記の『倶舎論光記』に興味深い仮説が載ってます。

四天王天はまっすぐ立った須弥山から張り出したバルコニーということになっていますが、仮に須弥山が上に向かって階段状に狭くなっていて、四天王天が踊り場だとすると、山頂の大きさが20,000由旬となり、ぴったり計算が合うと。

『倶舎論』の記述での四天王天は、「傍より出づ(nir-gatā)」とはっきり書いてあるので、踊り場ではなく張り出しであるのは間違いないのですが、説が整理される前のプロトタイプとして階段状の須弥山が考えられ、最終的に立方体の須弥山に落ち着いたと考えると、全てが符合し違和感の謎が解けます。

ちなみに『倶舎論光記』の作者の普光は、かの三蔵法師の一番弟子で(一番弟子が孫悟空なのは絵本の世界です。念のため。)、三蔵法師が天竺から持ってきたけど訳出しなかった未知の経典を見ていたり、天竺で聞いた話を又聞きしている可能性もあるので、その説はあながち無視できなかったりします。

 

で、仮に階段説を図にしてみるとこんな感じです。

この通り寸法は『倶舎論』とぴったり一致しています。

 

ただ、見るからにこれはまずい。現代日本人には墓石にしか見えない縁起の悪さはまあどうでもいいとして、まず形が複雑すぎ、そしてなのより大幅縮小された三十三天が見るからに貧相です。神々が遊ぶ天界がこれでは格好がつかなすぎる。多分最終的に採用されなかった理由でしょう。

 

ちなみに、この図を少し補正して山頂を諸経典と同じ一辺80,000由旬に戻して、山の上方は逆錐台状に広がっていると仮定してもう一回作図してみるとこんな感じ。

ちょっと不格好ですが、これだとまさに「鼓型」です。普光の主張する須弥山の形と一致します。このイメージが三蔵法師が『倶舎論』を訳出した際に残っていて、普光にも伝わったと考えると…ちょっと面白いです。

 

ちなみに、後世の中国人や日本人が描いた須弥山世界図で須弥山が正立方体になっているものはまずありません。ほぼ全てプロトタイプβのように描かれてます。

 

天竺で考えられたプロトタイプが中国や日本に伝わったのかは分かりませんが、少なくとも「自然なイメージ」であるのは確か。下界の普通の山と同じく段々細くなっていくけど、天界との境界線を越えると徐々に広がり始め、頂上には広大で壮麗な神々の世界が広がっている。経典にどう書いていようが、それが人々の考える自然な天界なんでしょうね。

 

ちなみに自分は諸経典の「記載通り」のモノリス須弥山が純粋に好きです。いいじゃないすか。世界の中心に巨大六面体クリスタルがあって、世界はそれに支えられてるんです。そっちの方が夢があります。