受け売りと基礎的な憲法学の知識をもって、こんな駄文を書いてみました。

ご一読いただけたら幸いです。

 

以前から、ある権利について、憲法で保障されていないから憲法を改正するべきであるという主張をよく見かける。

ざっと思い出してみると、環境権、高校教育無償化、同性婚があるようだ。。

そして、実際に憲法改正をしてその権利を明文化しようと動いている人もいる。

 

しかし、ここで考えてみる。

その主張をする人は、憲法に「明文の」規定がないから保障されていないと主張している。

しかし、憲法学上の常識として、憲法に明文として記載されていなくても、憲法第13条の「幸福追求権」すなわち「包括的基本権」を根拠として認められる余地があるということがある。

実際に「肖像権」までは行かないとしても、「個人は容貌をみだりに撮影されない自由」が判例として確立している。

国、政府与党が「この権利は憲法で保障されていない」と主張していわゆる「憲法改正」を主張するということは、理由付けとしては失当である。

 

確かに、相対的には明文上の規定があることの方が好ましい。

すなわち明文の規定がないということは、その権利が認められるためには裁判所の判例として確立される必要があり、その点が弱点ではある。

そこで、ある権利について憲法上その権利が存することを確認する訴訟を提起する必要がある。

そこで、あえて幸福追求権のことを横に置いておいて、憲法上に明文化されていない権利について考えてみる。

 

まず、憲法とは権力を縛るもの、すなわち恣意的な権力の行使によって人権を侵害させないためのものだということは、立憲主義、すなわち近代国家としては常識である。

憲法上保障されているということは、言い方を変えれば憲法が国に対して、その権利を侵害することを禁止しているということである。

すなわち国がある施策を実行する場合、憲法上の権利を侵害するということを禁止するということである。

ここで指摘して、前提とするべきことは、憲法上明文の規定がない場合、その権利が憲法上単に「保障されていない」ということなのか、憲法上「禁止されていること」なのかを厳格に区別しなければならないということである。

その帰結として、憲法上禁止されていない施策は、「憲法改正」を待たずに立法によって実現すれば良いことであって、そのことによって憲法違反の問題は生じない。

憲法上禁止されている施策を取る必要がある場合に初めて憲法改正のことが問題となる。

そこで実際問題として、憲法上禁止されていないことの実現を求める場合のことを検討してみる。

もしも憲法改正をする場合には、国会の衆参両議院の「総議員」の三分の二以上の賛成をもって発議をし、国民投票の過半数の賛成を得なければならない。

これに対して、法律の制定には衆参両議院の「出席議員」の三分の一以上の出席でその過半数の議決をすることで足りる。

仮に参議院が衆議院の議決と異なる議決をした場合でも、衆議院の「出席議員」の三分の二以上の再議決で法律は成立する。

憲法改正よりも法律制定の方が明らかににハードルが低い。

憲法改正に必要な数の同意を得られなかったとしても、法律制定のための数の同意を得られる可能性が大である。

もちろん、違憲立法の問題は生じない。

また、その権利について立法が実現すればもはや裁判所にその権利が存することの確認について訴訟を起こす必要はないし、当の権利がすでに確立しているので仮に訴訟を起こしても門前払いである。

 

さて、環境権、高校の教育無償化、同性婚について個別に考えてみる。

まずは環境権。

環境権が明文上規定されていないという問題は、かなり前から指摘されていた。

憲法学上、環境権は憲法第13条の「幸福追求権」と憲法第25条2項の「公衆衛生の向上及び推進」の両条文を根拠として認められるということが通説である。

ただし裁判所の判例としては「環境権」に言及している判決はまだ出ていない。

そのため、環境活動家などにも「憲法改正」を主張する者が多い。

しかし、憲法上環境に配慮した政策及び立法は「禁止」されてはいないので、あえて「憲法改正」などという高いハードルを目指すのではなく国に政策及び立法の面で環境への配慮を求めるべきである。

余談ながら、自民党の「憲法改正案」には環境権が歌われている。

一見環境権に配慮した条文に見える。

しかし、自民党案ではすべての権利に「公益及び公の秩序」の制約が科せらており、現行憲法の「公共の福祉」とは異質のものである。

「公共の福祉」とは、権利を制限する理由は他の利益以外には無い。

その利益と利益の衝突を調整する基準が「公共の福祉」というものである。

それに対して「公益及び公の秩序」とは国の利益を前面に押し出した規定である。

従って環境権も「公益及び公の秩序」の制限を受ける。

そのため、「公益及び公の秩序」を根拠に環境権を制限すること、すなわち侵害することも可能であり、一見環境権の規定に見える条文が「公益及び公の秩序」を口実とした環境権の侵害を認める根拠となりかねないものとなっている。

自民党改憲案のアドバルーンに騙されてはいけない。

 

次は「高校の教育無償化」。

憲法第第26条には、義務教育を無償とする規定がある。

確かに義務教育以外を無償とするという保障はない。

しかし、義務教育以外の教育を無償とすることを禁止してはいない。

また、どこまでの教育を義務教育とするかということは憲法では規定されていなくて法律で規定される条項である。

すなわち高等学校を義務教育とすることは法律を改定すれば憲法を変えるまでもなく法改正で足りる。

従って自民党の主張するように高等学校の教育を無償化するには憲法の改正が必要として改憲を迫るということは本末転倒である。

騙されてはいけない。

余談ではあるが、聞くところによると憲法改正の国民投票のためには莫大な費用がかかり、その予算があれば高校教育の無償化は優に実現できるそうである。

 

最期に同性婚。

憲法第24条の「両性の合意のみに基いて成立」の「両性」の文言を根拠に同性婚は憲法を改正しなければ実現しないと主張されることが多い。

同性婚を認めさせようと活動している人にもこの見解に基づいて憲法を改正しなければならないと主張している人も多い。

しかし、同条文の文言及び成立の経緯を考えるとそうではないということがわかる。

この憲法第24条は男女両性の平等及び婚姻の自由の両者が一つの文章によって規定されている。

そのため、混乱されやすくもある。

同条文の成立の経緯を考えてみる。

同条文の規定が憲法草案のGHQ草案に盛り込まれたのは、ベアテ・シロタの強い意志による。

ベアテ・シロタは、幼少期、思春期を日本で過ごし、日本における女性の地位の低さ、そのことが婚姻の場面に最も強く発現することを痛感し、この男女平等及び婚姻の自由を憲法草案に盛り込もうと力を尽くし、実現した。

その時代において、同性愛者の権利についてはまだ顕在化していなかった。

従って、この条文は同性愛者の権利については全く想定していない。

そのため、同性愛者の婚姻については、保障もされていない。

しかし禁止もされていない。

従って、同性婚について立法することについては憲法違反の問題は生じない。

同性婚について活動される人も、あえて高いハードルを越えようとする必要はない。

私見としては、裁判所がそこまで踏み込むかどうかは別として、憲法上は「幸福追求権」の一環とするべきではないかと考える。。

 

以上が、私としての「憲法改正」を誘惑する論調を論破してみる一つの試みである。

ご考慮のほどを。

 

そんなことを、だらだらと書いてしまいました。

長文になったな、長文になったなと自覚はしていたのですが、書きながら居直ってしまいました。

読了された方のご苦労に感謝します。