大学を卒業して最初に入社したのは、今では一部上場の不動のメーカーP社でした。
当時はまだ上場もしていなかったですが、業界トップのほぼ寡占企業でした。
入社と同時に大阪支店の営業部配属を命ぜられて早々に赴任、寮も完備されていたので早々と入寮しました。
関西は親戚も多く、大学・高校時代によく遊びに行ってましたし、高校時代は野球が強い高校でしたので、春・夏の甲子園は通産4回の出場があり、しょっちゅう甲子園の応援に行った帰りに親戚の家へお邪魔していましたので、関西は慣れたものと思っていました。
実際、生活して営業するとなると関西弁を話さない営業マンはお得意先からでも結構冷遇され、最初の3年間は大変に苦労しました。一人暮らしは初めてで、しかも寮生活、毎晩のように所帯持ちの先輩方が夜遅く酔っぱらって寝泊まりに来る。そんな慣れない生活の中でストレスもあったのかと思いますが、支店の中で一番扱いずらい社員になってしまっていました。
上司の言う事は聞かず・先輩社員に反発・次長には食ってかかる、等々、今思い返しても酷い社員だったなぁ~と我ながら反省してしまいます。
そんな生活が続いた3年後、直属の上司と先輩の栄転を機に、私はついに営業部より業務部に異動になりました。名目は異動ですが、事実上左遷でした。一度は”辞めよう”と思ったのですが、生憎?結婚を3ヶ月後に控えていたので思い留まりました。ご栄転される上司と先輩からも”再起を掛けて頑張れ”と温かいお言葉を頂きましたし、何よりも栄転が決まった折、極秘裏に業務課の課長に上司が頼んで言った事を知り、自分自身でも再起を掛けて頑張ろうと思いました。
又、こんな我儘で問題児の私を受け入れて下さった、課長の為にも”絶対に見返してやる”と決意を新たにしました。
但し最初の1年間は所謂”おしん”の世界でした~。何度も”煮え湯を飲まされる”ような事が多く、一番厳しかったのは、毎月1回の社長列席の会議の席上で毎回社長から支店社員全員の前で”お前は営業が使えなかった”と叱咤を浴びせられる事でした。
今考えてみるとこれが無ければ”変にプライドだけ高い浮いた駄目社員”で終わって居たかも知れませんのであの社長のお言葉はありがたい事だったと思っています。何せ悪気に付けでも数千人の社員の中でも私の印象が全社一社長には目立っていたのですから。笑
一年を過ぎる頃から”支店会議”でも社長に怒られなくなって来ました。商品在庫と棚卸の差異が業務課の努力によって全社一少ない支店になったからでした。課長の誇らしげな顔を見て、私も嬉しくなったものです。
2年目には会議の席上で社長から直接御褒めの言葉を頂き、感激したと同時に”ホッ”としました。
ただこれで終わりではなく更なる上を目指して、又引き取って頂いた課長への感謝も込めて適正在庫と棚卸差異の撲滅に向けて頑張り続けました。
転属して3年目のある日、支店長から直接の依頼を受け、当時完璧に在庫が合ってる1商品の入出荷台帳の提示を求められました。”内密に誰にも話すな”と釘を刺されたので誰にも言わずに普段の業務を行っていました。
それから3週間程経ったある日、納品業務から帰って私にその衝撃が走りました。
会議室に行くと、支店長・次長・業務課課長が揃って居ました、支店長から”業務課の課長は本日付で退職される”と切り出され何が何やら頭が混乱してしまいました。混乱している私を次長が直ぐに別室に誘われ”課長が商品の横流し・横領”の事実を告げられました。
私的には”引き取って頂いた課長の基で全社一の称号を頂く事が恩返し”と思っていたので”恩が仇”となってしまったととっさに思いました。結果的には私のした事が課長を追い詰めたのです。
当時、事務所には支店長・次長と女性社員が居ましたが、事務所の中で課長の前で大声で泣いたのは後にも先にもあれが最初で最後でした。その日は支店長・次長のご配慮で早退をさせて頂きましたが、ダメージは大きく、未だに忘れる事ができません。
横領とか横流しは確かに社会的には犯罪ですが、それよりも”課の為、課長の為(自分自身の為でもあったのですが)にした事が、結果的に課長を追い詰めてしまった”事が何とも遣る瀬無い思い出として残りました。