夢は枯野をかけめぐる

せっかちの美学

仕事を素早く仕上げる為、物理的なスピードを上げる事も1つの方法である。手を早く動かしたり、走ったり。

技術が熟練してくると無駄な動きがなくなり、それほどアクセルを踏まなくとも、素早い仕事が出来るもの。

そして、ひとりひとりが徹底的に早さを求めると、熱気や迫力でその現場は異様なほど盛り上がり、その臨場感の中でしか生まれない作品は確実にあると実感している。


物凄いスピード感で動く、お寿司屋さんの仕込みや、中華やフランス料理屋さんの厨房で作られた料理などにも同じ事が言えるのではないだろうか。



残暑が厳しい日々が続いているが、敷石の仕事をしている。

ウチでは数人でバケツリレーのように石をどんどん渡していって、一心不乱に敷いていく。職人同士の息が合わなかったり、少しでもリズムを崩すような事があると、作業に置いていかれるので、集中力を高めないといけない。

もちろん石の吟味もするし、丁寧に敷き、目地を仕上げるのだが、全ての工程で常に早く仕上げる事を意識している。

そのように散りばめられた石たちは、動きやリズムがありながらも「ここではこう収まるべき」と、言わんばかりの表情を浮かべる。

桂離宮や藪内家燕庵の延段などもそれではないだろうか。

最近では、極端な話、敷石を見ただけでどんな風に作られたか分かってきたような気がする。


職人は昔からせっかちだと言われる。

もしかすると山水河原者たちは、ここから生まれる美学を、無意識に理解していたのかもしれない。



草むしりとは、浮世を渡る哲学だ

「どこまでも広がるビロードの海のような芝生から、彼は雑草をひとつひとつむしっていた

そして草に向かって見透かしたような静かな笑みを浮かべていた 日本人の庭師にしか浮かべられない笑みだ」

レイモンド・チャンドラー作 「大いなる眠り」の一説である。



庭師の習性を表した的確な文章ではないだろうか。

他にも「ロンググッドバイ」では、朝6時から鋏の音を鳴らして木を切る日本人庭師など、フィリップ・マーロウシリーズには度々クセの強い庭師が登場している。

苔の中のカタバミや、芝の中のスギナを丁寧に、根っこから引くのが本来の庭師の仕事だ。

大徳寺の立花大亀老師は自身の著書で「雑草は煩悩と同じで、見つけたらすぐに摘む事が大事。根まで引く必要はない。」と書いていた。

これもまた一つの哲学かもしれないが、僧侶や旦那など庭の所有者の哲学であって、庭師のものではないだろう。


草には自然界でそこに生える必然性がある。

自然を模した人工物を拵え、美の為に草を引く庭師は、ある種の贖罪を背負うのである。

草むしりとは草と苔と庭師の無言の対話であり、愚直なまでの庭師の行為に、苔も芝も、絶対的な美しさで答えてくれるのである。

何でもかんでも摘めば良いというわけではない。


ただ、横風な態度を取るつもりはないが、キク科の植物が根まで綺麗に抜けた時、その笑みを浮かべてしまう。

"見透かしたような静かな笑み"



百日紅の姿


百日紅(サルスベリ )その名の通り長い間花を鑑賞することが出来、本来中国南部に自生していたが、滑らかな樹皮は幹物と呼ばれ、日本では江戸時代以降庭木として好まれてきた。


しかし、乱暴な手入れをしても花を沢山付けてくれるからか、何度も同じ所で切り戻し、枝先を握り拳のようにする瘤仕立てで剪定される事が殆どで、その姿は非常に醜く、本来の美しさが完全に失われてしまう。

現代では庭に植えたいと思う人は少なくなってきている。


ただ、知る人ぞ知ること。正しく手を入れれば、その姿は美しく維持することが出来、梢に霧がかるように咲くその花は答えてくれる。

これが本来の姿よと。


新たに管理する時点で、すでに瘤仕立てになっている場合、冬のうちに瘤を取るようにスタブカットをし、そこから出た良い方向の徒長枝で、年月を掛け枝ぶりを再構築していく。

この作業は、生育環境やその木の健康状態、個体差で、こちら側のアプローチに対して様々な反応を見せるので、経験とそこで培った勘に頼って作業する事も多い。


そこで1つの指針としている絵画がある。

鏑木清方「朝夕安居」の昼

この絵に描かれている百日紅の枝ぶりは、本来、木自身が伸ばしたいであろう方向に枝を広げ、それが簡略化されて描かれているのである。

百日紅の自然樹形と環境による変化を発見する為、様々な百日紅を見てまわり、悩み、会得したことが、この絵に凝縮されて表現されているのである。


ある程度の空間があるならば、シンボルツリーとして、または玄関庭に百日紅を植えるのも良いかもしれない。

嬉しい事に、瘤仕立ての百日紅を自然的に作り直した時、お施主さんは必ず喜んでくれている。