まず結論から述べると、教養人というのは「自らで物事を判断できる人間」だと考える。物事を判断できるということは、他者からどういう力を働きかけられているのか理解できることにつながる。すなわち他者に操られないようにするか、若しくは操られていたとしてもそれを自覚して最善の対処法を考えられるということである。

 

 物事、ここでは情報を指すが、情報というものは入力して、判断(思考)して、出力するという三つの処理を加えるものである。真の教養人を目指すならば出力面も蔑ろにしてはならないが、上記観点から言えば、入力と判断ができれば及第点といえるだろう。以下、この二点について必要なモノ、姿勢を述べていく。その後に出力面と真の教養人について述べる。

 

 まず入力について。

 今回の公文書改竄問題ではコメンテーターの意見は各人各様で、意見に大きな色合いが出ているのがよく分かる。具体的に言えば、政治家の圧力があったという意見と財務省単独事案であったという意見に大別はできる。ある一つの番組において、多方面の立場のコメンテーターが出ていれば善いのだが、一番組のコメンテーター全員が同じ意見を言っていたら危険である可能性が高い。私は保守的立場であるが、地上波で右寄りのコメンテーターしか出ていない番組があったら、それはそれで気持ち悪く感じる。常に知らないコメンテーターが意見を述べているのを見たら、その人物の経歴、思想などの背景を調べることは重要であるといえるだろう。

 また、それに付随して言えばG20に麻生財務大臣が欠席する結果となってしまったが、例えばG20に対する外国の評価を知るために英字新聞を読めるようにしておくことも重要と言えるかもしれない。教養人という話ならば、何も英字新聞に限った話ではなく論文、メールなどの媒体を使う際に英語を読めるのに越したことはない。

 まとめれば、情報出力者の背景を調べる事と英語を読めること(google翻訳が発達したら重要性は減る)の二つが入力において重要なことである。

 因みに、つい最近危険だと思ったのが、偶々生放送で観ていた「ひるおび」という番組なのだが、和田政宗参議院議員の太田理財局長に対する質問において、全員和田議員の質問内容の真偽性について鑑みず和田議員の人格を否定する方に向いていたことだ。否定する人がいることはむしろ健全だと思うのだが、それこそ全員、和田議員の質問内容の正しさについて考えていなかったことに不快感を持った。質問内容というのは「太田理財局長が増税派だから~」というものである。

 

 次に判断について。

 判断というのはコンピューターでいえばCPUが担う部分であって中枢ともいえる。そして判断に必要なモノは何か。これは入力にも関わるもので、大雑把に言えば広範に渡る知識。言葉を換えれば、思考の枠組みである。とどのつまり、一般的に言われる教養を持っていることは教養人である必要条件という結論に行きつく。

 ここで整理をしておきたい。私は、前に、教養人とは「自らで物事を判断できる人間」と述べた。そして、その物事は情報であり情報には入力、判断、出力という三段階がある。これら全てをできるのが真の教養人で、入力と判断ができるのを及第点とした。要するに一般的には判断の段階で必要な広範な知識が教養と言われていると言いたい。

 では一般的に言われる教養とは何か。広範に渡る知識とは。やはり政治と経済は大きなウェイトを占めていると思う。これには文句のつけようがない。なぜかと言うと前述した他者からの力がダイレクトに関係していて、それを分析する分野だからである。あらゆる国の政策、日銀の金融操作は私たちの生活に大きな影響を及ぼす。また、保守やリベラルがどういう立場であるのか知っているというのは入力にも関わることなのだ。財務省には増税文化があることや、理財局と地方財務局の関係、証人喚問と参考人招致の違いなどを知っていることは、今回の公文書改竄問題について理解する一助になる。

 しかし、政治経済だけで良いのだろうか。公文書改竄とは関係ないが、福島第一原発事故の時には放射線について、すなわち物理に関する知識があるに越したことは無かったし、中東の情勢を知るには宗教について知るに越したことは無い。

 知識というのはどこで役立つか予測するのは難しい。そして、その予測に意味はない。そういう意味で、普段から広範な知識を吸収しようとする姿勢は大切だろう。

 では、どのように、吸収すればよいのだろうか。これも一般的に言われるが、代表的な手法が読書だ。奇をてらって、独自な手法は言うまい。読書が最重要である。学部生が各自の分野についてどれだけ四年間の間に勉強するのか詳細なデータはないのだが、成書二冊程度と大衆書十冊程度読めば近い水準に行くのではないかと感じている。

 ただ、読書以外にも重要な姿勢があるのではないか。それは、情報媒体で見聞きしたワードの中で知らないものについて調べる姿勢である。例えば、「消費者物価指数、GDPデフレーターとは何か。両者の違いは何か。」といったもので、ラスパイレス指数とパーシェ指数というワードが又出てくる。そうして関連付けて覚えていくのである。

 まとめると、判断において必要なのは一般的に教養と言われる広範な知識と、貪欲に読書をする姿勢、情報媒体で得た知らないワードを調べる姿勢である。

 

 以上、二点を抑えれば、及第点の教養人になれるだろう。要するに、社会の歯車になっていることに気付かないことは無いということである。(哲学的に踏み込めば、「無知の知」などと関わった話になり、それに完全に気付くのは無理なのかもしれないが。)

 ならば、真の教養人についてはどうか。ここでは真の教養人を、それこそ他者に力を働かせることのできる人間であると定義する。ここで出力面の話が出てくるのである。他者に影響を与えるにはどうすればよいのかという話になる。

 

 真の教養人について。コメンテーターにこの資質が求められるのは言わずもがなである。何故なら、コメンテーターの目的や存在価値が金銭を得る事ならば違う話だが、視聴者に影響を与える事ならば、定義そのものの話であるからである。そこで、どうすれば影響を与えられるのかを知らねばならないのだが、人としての信用を得ることが重要である。信用がなければ、話を聞いてもらえないし、人を動かすこともできない。今回の公文書改竄問題において、信用に足るコメンテーターは少ない。

 そして、信用を得る手法を持ち得る人間が真の教養人であり、信用を得る手法というのは、偏らないことと適切な表現をすることである。この二つが出力面の話である。

 

 出力について。

 偏らないことというのは、すなわち多面的視点から表現できるということである。例えば、また右翼、左翼の話になって恐縮なのだが、あまりにどちらかに偏りすぎていて、自分がどちらにいるのかを自覚していない人間は一般人からすれば、信頼することはできない。本来ならば、簡易に二つに分けるのではなく、安全保障面、社会保障面など、各方面において多様な立場をとってよいはずなのである。

 適切な表現をするというのは、自分が現在進行形でこの文章を書いているので、自己矛盾に陥る可能性もあるのだが、稚拙な文章を書いたり、支離滅裂な事を言わないということである。そして相手に合わせて話したり書いたりすることでもある。適切な表現は、人を動かす手法でもある。これは真の教養人として必要な資質と知っても一朝一夕で得られるものではない。随時、何かしらの方法で文章表現をしたり、論理を意識して会話をすることが必要だろう。 

 再度強調すれば、偏らないことと適切な表現をすることが、出力において重要な二点である。

 

 最後に、私の感想を述べたい。この文章において述べたように、真の教養人というのを目指すのは良いが、入力と判断を確実にできることが第一であると思う。何よりも他者から騙されないというのが、生きていく上で重要であるし、判断において必要な広範な知識を更に広げ、深めていくことはやはり中枢部を強化するという点から、その人自身の中核を成長させることであるからである。

 ここまで述べた分析から、昨今、教養を持つべきであるという風潮が目立ったり、一般に成功したと言われる人物に読書家が多い理由が理解できるように思える。

 ペイパルマフィアのボスといわれるピーターティールは優秀な人材の条件として、豊富な知識を持つことや数か国語を話せることなどを挙げている。豊富な知識というのは、判断の事項で述べた必要なモノであり、数か国語を話せるというのは出力面において述べた適切な表現の一部である。

 まとめれば、社会の歯車になっても良かったり、それに気づかずに生きていく方が幸せであるならば、教養人である必要はない。これは選択の問題であるが、私は教養人である方が人生が豊かになると信じて教養を深めていきたいと思う。

 ここまで読んでくださった方に陳謝したいのは、この文章を記述するにあたって、幾分自分のことは棚に上げたことである。例えば、英字新聞は普段から読んでいるわけではないし、マクロ経済学に関しても成書二冊を読んだりはしていない。しかし、将来的には実行していきたいところである。私はこのままいけば、医師になるわけであるが、医師というのは社会的に求められる教養水準が高い職業である。医学部であるから、医学以外のことは全く知らなくてよいというわけにはいかないのである。

 真の教養人に向かって邁進していく次第であるし、まさにこの文章を読んでくださった方にも目指していただきたい。