28歳のとき、田舎から必死に働いて外資系企業まで辿り着き、地元では「成功したね」と言われるようになっていました。
でも、みんなが「このまま出世していくんだろう」と思っていたタイミングで、私は仕事を辞めてオーストラリアに飛びました。
貯金も家もなく、ほぼゼロに戻るような決断でした。

それでも——あの一年は、人生で一番幸せでした。


01. 学生時代の“純度”をもう一度味わえた

キャンパスに戻ると、人間関係の軽さと素直さに驚きました。
6歳年下の友人ともすぐ意気投合。
年齢の近い社会人仲間が話す「家・車・投資・年収」みたいな話題に疲れていた私にとって、ここの空気は本当に心地よかった。

メルボルンでは、服装や体型、収入であれこれ言う人はいません。
みんな美味しいもの、旅行、映画、音楽——そんな“生活そのもの”の話をするのが好き。

気を張らなくてもいい空気に、やっと深く息ができた気がしました。

その一年で、挑戦できなかったファッションにも手を出し、念願のスケボーを覚え、友達といろんな場所へ出かけ、地元の人とも仲良くなれました。
毎日が新鮮で、軽やかで、自由でした。


02. 学びが、もう一度 “進む方向” を教えてくれた

数年の社会人経験があったからこそ、自分に必要なスキルや将来像がハッキリしていて、迷わず専攻を選べました。
今回は“ただの学位のため”ではなく、
「これからの10年をどう生きたいか」
それを見つけるための学びでした。

課題は多いし、夜中まで作業することも当たり前。
それでも、実力がちゃんと身についていく実感がありました。

プロジェクトやディスカッションを重ねる中で、ぼんやりしていた将来像が少しずつ輪郭を持ち始めたんです。

あの一年で、私はもう一度、自分の進む方向を“調整し直す”ことができました。


03. でも、留学のフィルターはすぐに壊れた

もちろん、良いことばかりではありません。

最初の2ヶ月は、寂しさに泣きながら寝た日もあります。
メルボルンの生活はスローだけど、ゆったりというより“閉じ込められたような”息苦しさもありました。

遊びといえばバーくらい。
物価は高すぎて、多くの家庭が節約生活に突入。
私はよくコンビニの“賞味期限ギリギリコーナー”を漁っていました。

言語の壁はさらにきつい。
バイト中、お客さんの英語がまるで暗号のように聞こえ、注文を聞き違えてクレームになり、給料を差し引かれたこともあります。

語学学校は高すぎて通えず、毎日 Duolingo で独学。
真っ暗なトンネルを手探りで進んでいるような感覚でした。

後になって、FamilyPro というプラン共有サイトに出会い、必要なツールを安く使えるようになり、ようやく小さな光が差し込みました。


04. それでももう一度選べるなら、私はまた辞めて留学する

理由は簡単です。
あの一年は、子どもの頃にゲームの新しい“世界”に突っ込んだ時のような感覚だったから。

想像したこともない都市に住み、
日本では絶対出会わない仕事を経験し、
学生時代にやり残したことも取り返し、
世界中から来た友達と繋がれた。

日本でまた働く不安がゼロになったわけじゃない。
でも、あの頃の私とは、もう心の強さも視野の広さも違う。


05. 一番の宝物は、“無数の人生”に触れられたこと

海外での出会いは短いけれど、一瞬一瞬が濃かった。
まるで何本もの映画が同時に流れているみたいに、それぞれの人生が交差していきました。

そこで気づいたんです。

人生って、想像以上に広い。

そしてもう一つ。

人生は、そもそも “リセット” なんていらない。

出発も別れも、選択も行動も、
過去を消すためじゃなくて、
新しい自分を積み重ねていくためのもの。

“再スタート”とは、
古い人生を壊すことじゃなく、
これから始まる章に、
静かで温かいプロローグを書き足していくことなんだと思う。