前回の記事で、約2カ月前に私という感覚がなくなるという、ちょっと衝撃的な体験を書いたのですが、これが何なのか説明がつかず、いろいろ調べまくっていました。
そもそも、私という感覚がなくなるという表現が合っているか良くわからないですが、日常生活において、起きている事象に対して私が介入していかないのが確かにある。
言葉での表現が難しいですが、生活の中で私にとって必要なことはちゃんとやってますが、私に関わる物事であっても、現象と自分の感情を紐づける、ハートのあたりに感じる微弱な反応というものがないのです。意味不明ですね。
これを書いている今でも、胸のあたりに自分を感じようとしてもスッカスカなんです(笑)。変な話ですが。
さて、この状態になってからいろいろ調べて分かったことがあります。
悟りスピーカーで少し有名どころのじゅんころさんという方がいまして、5~6年前くらいの動画を見直したところ、「ある日突然、ふわって私が抜けてしまって、胸のあたりがふわっと取れたみたいに、今まであった自分がいなくなってしまった」と言っており、私もこれだと思った訳です。
でも、現在の彼女が語ってることと、私が体験したことは微妙に違います。
彼女自身も今では過去の動画で言っていることは全然違うと言ってますが、3年前にギャザリングに参加した際、悟りとは「パンッ」(手をたたく音)のことと言うんですね。
悟りとは「パンッ」である。そして、決着したかどうか。
このことを言っている方は、ほどんどいないと思います。
そして、これが真の悟りで、それ以外は悟りではないと主張しています。
非二元も一瞥体験も悟りではない。
本を出版するなどの有名な悟りのスピーカーさん達はたくさんいらっしゃいますが、どうもそれらは真の悟りではないらしい。
そもそも、悟りは仏教の文脈で語られているもので、ブッダの悟りが真の悟りである。
それは長い年月をかけて達磨大師や日本の道元を経由して禅まで受け継がれてきた。
そして禅の中でも、曹洞宗の禅にたまたま行きついた訳ですが、禅の悟りを開いた人はこう言います。
「パンッ」は「パンッ」である。(手をたたく音)
「ワンッ」は「ワンッ」である。(犬の鳴き声)
「パンッ」となった時、「今パンと音がした」、「いい音だった」、「ちょっとうるさかった」、「それは何の音だったのか」などの思考ではなく、ただ、「パンッ」であると。
「パンッ」が事実であり、真相であると。
人は思いや思考の方を事実と思い込み、それが迷いを生む原因になる。
この事実、真相が悟りの内容である。
そして、他の悟りとの決定的な違いは、認識があるかないかである。
禅においては、正しい座禅をすれば、いつかは誰でも悟れると説いてますが、ある時、認識が止む時が訪れ、すべてがはっきりし、私がなかったこと(無我)が分かるとのこと。
認識が死に切ると表現する方もいます。
認識が止むので、私もいないのである。
その認識が止んだ時に、「パンッ」は「パンッ」であることが分かり、そのことを決着したと言います。
私が過去に経験した自分が消えた体験や一瞥体験などは、まだ、それを認識している自分がいると解釈されます。
それを経験している自分がまだいるのです。
一瞥体験の描写ができるということは、まだ、認識が止んでないので、それは悟りではないと。
そういったものは、禅の悟りを開いた方に言わせれば、悟り損ないと評されているようです。
このことを知るまで、悟りというものを勘違いしており、勘違いというよりもだた単に知らなかったのです。
世に出回っている情報しか知らず、それを悟りと思い込んでいたのである。
つまり、発信者が悟りという言葉を使うので、私も含めた多くの人が、それが悟りだと認識されてきたのでしょう。
でも、それらを決して全否定するつもりはなく、これらの体験が個々人の主観に基づく曖昧なもので、それは仕方のないことでしょう。
それに、真の悟りではなくても(悟り損ないであっても)、それはそれで素晴らしいもので、多くの人が憧れを抱くのは自然なことだと思います。
また、ここで言っている(私が出会った)禅の悟りにおいては、ほとんど世に出回ってなく、このことはほとんど知られていません。
なので、真の悟りの知識が広く浸透していないのでしょう。
まあ、本気で修行したいと思わない限り、門を叩かない世界ですからね。
では、非二元とか一瞥体験で語られているのは一体何なのかという疑問が湧くわけです。
苦しみも消え、非常に生きやすくなる境地ではあるけれども安易に悟りという言葉は使えない。
禅の悟りを知ってしまったら、それとは似て非なるものであるのは確かである。
ある禅の悟りを開いた方に聞いた話ですが、非二元などは認識の中にある認識が消えた経験とおっしゃっていました。
まあ、いずれにしろ、私という感覚がなくなるという現象は、未だに説明がつかないもので、禅で言うところの無我に近いことが幸運にも起きたんだと言えるのかも知れません。
以上、今回は悟り損ないであることの告白でした(笑)