ここ最近、自動的に今に戻れることに気がついた


今が定位置である


それは思考がない領域


無でありゼロポイントであり不変不動


でも掴みようがない


この領域は安心、安らぎ、くつろぎである


歩いてる時、運転中、電車に乗ってる時などに良く感じられる


目の前の光景は思考などのフィルターを通さないのでダイレクトに見えている


見えるものをありありと感じているのである

見る物と見られる物

見られる物は私の心、思考、記憶、感情、五感などの感覚、私の身体、目の前の景色、あらゆる物質、人、動物、社会、国、世界、地球、宇宙、あらゆる学問、宗教、人間が作り出した物、思想や文化、習慣、言葉、これらあらゆる全ては認識できるもの


これらは移ろいゆくもので常に変化している


仏教では無常と表現されている


認識できるもの全ては二元の世界観である

その対局にあるのが見るものであり不変不動のもの
非二元である


二元の世界で何が起こっていようがこれは不動のものとしてあり続ける

私と思っていた、私の心、思考、記憶、感情、身体などの私から不変不動のものへ私が移行する


概念の私から本物の私への移行


これが「(概念としての)私はいない」という意味だと解釈する

本物の私は愛とか光とか真実とも表現されている

たまに聞く、私は愛、私は光、私は真実というアファメーションは、この私の移行を促してるように思える

そして、これはただの思い込みではなく、愛、光、真実として生きるようになる


実際にはこれらの言葉のように煌びやかなものではなく、とても地味で安らぎである


人によっては天国に居るような感覚というかも知れない


苦しみの意識から突然この意識に移行したらそれはそうかも知れない


でもこの意識に慣れてしまえばやはり地味である

WBCの最終回の優勝が決まった瞬間の感動などはこの意識では味わえない


あれは、初回から続くハラハラドキドキのストーリーがあってこその感動である


そのためには二元の意識が必要である


非二元の意識だけではこの世界を生きるのは不可能である

つまり、人生とは二元の世界でのお遊びだ

二元と非二元を行ったりきたりの今日このごろである