前回、自我が剥がれ落ちたら本質が現れると書きましたが、この本質には名前のつけようがない

無であり空であり何もない


言い表すことができないから「これ」という人もいる

思考にとったら「これ」は何でもないもの

あまりにも何もなさ過ぎて、いつも見逃されてる

テレビに真っ白だけの画面がずっと映っていたら退屈でしょ

なので常に何かを見ていたい

無味無臭

思考は退屈でたまらない

あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、あの問題、そしてこっちの問題

思考はいつも忙しいから「これ」は、いつも見過ごされる

実は日本には「これ」を指す言葉がある

それは「間(ま)」である

そこに意味は何もないが、その「間」を大切にする文化がある

何もないが、そこに何かの意味を見いだしている

何かの感覚というのはみんなわかってるが、説明はできない


ただ、「間」と言い表す

名前がつけられないものは、まさに、この「間」である

でも、思考は「間」に留まることはしたくないから、また、次のことをしてしまう

こうやって、永遠に「間」は見過ごされてきた

「間」より、魅力的なものがこの世にはいっぱいありますからね

でも、もうそれに飽きたら、「間」に戻ってくる時がやってきますよ

今がその時です

「間」は退屈でないの?

いや、心地よさが混じっているから退屈さはないな

ずっとそこに居られる