父、享年65歳という早すぎる別れから
それはそれは慌ただしく過ぎていきました。



田舎の本家の長男坊。
控えめに…は無理な話。


決めることもたくさんあるし、
手続きも目眩する程たくさんありました。



主人が有給をとってくれて、
ものすごく協力してくれ、母を連れて市役所や銀行、法務局をまわったり
独学で土地家屋田畑の登記申請書なんかも作ってくれました。



本当に感謝しかないです。
いつも頼りになる主人…密かに義両親に何かあったら
嫁として色々頑張りますと、心の中で誓ってみたりしました。



そして
一つ、誤算がありました。



母も私も妹も
想像したよりずっと、気持ちが落ちなかったのです。



私たち、薄情なのかね?
なんて言ったりしたけど…



食道がんの手術を受けて2年8ヶ月。



転移した、抗がん剤効かなかった、放射線効かなかった、
熱が出た、痛みが出た…



ひとつひとつに、私たちは覚悟をしていたのだと思います。



そして、父が望むことはしてあげられたという自負もありました。


2年8ヶ月の間、
母は1回たりとも、父を1人で病院に行かせなかったし
入院すれば毎日欠かさず好物を作って、お見舞いに行っていました。



家にいれば、母は何から何まで世話を焼いていたし
孫も一緒に温泉旅行も2回行きました。



主人は金曜日の仕事の後、高速で2時間の実家に
毎週のように私と子どもたちを連れてきてくれたので
一緒に過ごす時間も沢山ありました。



これ以上、何ができたでしょう。



それに、
壮絶な痛みに七転八倒して…ということもなく、
6月にはお隣のご夫婦と母と旅行にも行けていた程、亡くなる直前まで動けていました。



何より父は充分頑張りました。



心配していたのは母でしたが…
入院もしょっちゅうだったので、家に1人の事も多く、『父が居ない』ことに慣れもあったし、
夏休みで私たちが50日強も一緒にいられたので
寂しさも紛れたんだと思います。



夏休み中に四十九日法要まで済ませました。



今週は初彼岸、
そしてすぐ孫の運動会。稲刈り。
10月が終わればもうあっという間に年の瀬。
慌ただしい日々が待っています。


きっと父がくれた、最後のプレゼントだったのかもしれません。
母が寂しくないように、落ち込み過ぎないように。



一度、実家で洗い物をしていたら
子どもたちでも抱きついたかな?と錯覚するくらい
じわーっと背中が温かくなりました。



『お父さん?』



そのじわーっと温かいのが、すうっと頭に抜けていきました。
きっと、お別れにきてくれたんだな。
1人、泣きながら皿を洗いました。



お父さん。
やっぱりまだ信じられないような気がする。
なんだかぎこちない親子だったけど、また会えるはず。
そしたら、今度は手に触れよう。



ようやく会えた!
元気にしてた?って。




   



以上で、【食道がんの父】は終わりです。


うちは娘と父、嫌いあっているわけでもない、かといってベタベタ無関係でもない、まだ昭和ななかなか複雑な関係だったのかな。


父はとても厳しくて、頑固で、マイペース。

でもとても良い父だったと思います。


『思い出は後で買えない』と、沢山お出かけに連れて行ってくれたし、
好きなことをやらせてくれました。

私と妹が同時期に家を出て、
それぞれ同棲し、1年後、1週間違いで入籍した時は
近所の人もビックリするくらい白髪で真っ白になってしまいました不安
それは…ごめん。
妹とは全くの偶然だったんだ不安

跡取り娘だった私を『今はそんな時代じゃない』と反対することなく、送り出してくれた父。

早期リタイアして、
趣味のゴルフに毎週出掛け、畑仕事に精を出し、
孫を可愛がり、母と月に1回は旅行に行き。

確かに早すぎる最期だったけれど、
充実してたんじゃないかなと思うと、少し救われます。

父がいなくなって、次の夏で4年。
今年も浴衣をきて会いに行くよニコニコ