何のために書くのか、
誰に対して書くのか、
「本人に向かってそういったことは一度もないが、わたしはいつも姉に読んでもらうつもりで小説を書いてきた。
もし、わたしがなんらかの芸術的統一性に達しえたなら、その秘密は姉にある。
わたしにいわせれば、調和と統一のある創造物はどれでも、それを作った芸術家や発明家が、一つにまとまった観客や聴衆を頭においていたからなのである。」
( カート・ヴォネガット 『スラップスティック』 )
少し考えてみた。
ヴォネガットの言葉は、随分と私の郷愁を誘う。
私にも姉がいるからだ。
いろんなことが考え得た。
知り合いには内緒で
友人・家族に向かって
仕事の話を
記録として
知識のまとめ
同じ趣味の人を対象として
不特定多数を対象として
ただ自分に向って
ただ日々の発散のために
どれもしっくり来なかった。
結局私も、書くのなら、伝えるのなら、
「姉」に読んでもらいたいのである。
実際のところ、姉に読んでもらうのは簡単である。
ヴォネガットと違って(既にヴォネガット自身故人だが)、姉はピンピンして健在で、ボタンひとつですぐに連絡がつく。
だけどそんな風に、「本当に」読んでほしいわけじゃない。
私は私のために、私の内の「姉」に向かって書きたいのだ。
ヴォネガットは白昼夢で、自分と自分のすばらしい姉を怪物として、夢想した。私は夢想にふけることはない。私は小説家のおつむは授かっていない。
でも、確かに姉は怪物として描くこともできそうだ。
幼かった頃、姉は私にとって世界の中心であり、アマテラスであった。
苦笑するほかないが、未だに「私」は姉の承認を欲しがっている。私のこころの内の「姉」の、ではあるが。