唐突ですが、FXではなく、素敵な人たちというテーマでお送りします。
ペタしてくださったライオンハートさんのブログ にお邪魔しまして、
この「マザーテレサの生涯」の文章を読み、心を打たれました。
最後の一文、最後の言葉を残しておきたくて、許可を得て引用
させていただきました。
『日本は、物質的には豊かですが、精神的に皆、豊かだとは限りません。ま ずは、自分の屋根の下から考えて見なさい。ご両親の悩みを聞いていますか? 兄弟と喧嘩してませんか? お爺ちゃん、お婆ちゃんを大切にしていますか? それができたら自信がつきますから、次は、学校、友達、社会へと広がっていきますよ。やることいっぱいありますから頑張って下さい。』
『パンへの飢えがあるように豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。誰からも愛されず必要とされない心の痛みです。与えて下さい。あなたの心が痛むほどに』
初めのほうは失礼ながら流し読みだったのですが、改めて、
全体が繋がる必要があると思いましたので、やはり全文を引用
させていただきます。
時々読み返すために。
-----------------以下引用------------------
【はじめに】
この記事がある方にとって励みになるか否かは、分かりませんが、その方の為に公開します。一読されていれば幸いです。
【1】
マザーテレサの誕生。
マ ザーテレサと言えば、大半の方が知っておられると思いますが、マザー(アグネス ゴンジャ)は、1910年(明治43年)スコピア(現マケドニア)のアルバニア商人の家庭に生まれ、両親は、アルバニア系の熱心なカトリック教徒でした。 1928年(昭和 3年)アイルランドのロレッタ修道会に入会。1937年(昭和 12年)終世誓願を立て、シスター・テレサとなります。その後、修道院の女学校(聖マリア高等学校)に赴任し、歴史と地理を教え、充実した毎日を送っていました。しかし、時代がテレサを揺さぶりました。それは、1939年、第二次世界大戦勃発、戦火に覆われ、1943年のベンガル大飢饉に襲われた人々は、難民となってあふれ、汚物にまみれた物乞い、栄養失調の子供達、その悲惨な状況は、テレサの静かな学園の中にも伝わってきました。その時、テレサは、悩んでいました。神に祈るだけで何もせずにいて良いのだろうか、私は、完全には神に捧げていない気がする。しかし、終世を捧げると誓ったシスターが勝手に行動することは、許されませんでした。1946年(昭和21年、9月10日)この時、テレサに信じられないような出来事が起こりました。黙想のためダージリンへ向かう汽車の車中で、神の声を聞いたのです。そして、『病める者に手を差し伸べて、家も無く、飢えている者を助けよ。神の手となり、愛を持って貧しい者の中の最も貧しいものを救え。』という”神の召命”を受けたのです。これをきっかけにテレサは、清らかな学園生活を捨て、修道会を出て貧しい人々の中に入ることを決意します。この瞬間、インドに偉大なる聖者マザーテレサが誕生したのです。
【2】
新たなる出発
テレサが選んだ地は、頼る者も無いカルカッタのスラム街でした。しかし、テレサが飛び込んだこの地の酷さは、予想を超えており、まさに試練の連続でした。毎日わずかな食べ物と薬を携え、歩き回り、与える者が無ければ、テレサ自身が人々の施しを受け、それを分け与えるしかありません。それでも無数の人が飢え、自分のしていることは、大海の一滴(ひとしずく)。時には、荒手の布教活動だと追い払われたり、物乞いと間違いられる始末。世間の批判も厳しく、スラム街のシスターと 馬鹿にされていました。身も心も疲れ果てたテレサは、満ち足りた修道院に帰りたい誘惑に駆られたこともあったそうです。そんなある日、一人の少女に出会い ました。少女は、『お金を下さい、シスター』、と言いました。テレサが、その少女の家にいくと母親と子供達が飢えで痩せ細って、目を光らせていました。テレサが持っていた僅かな米を差し出すと母親は、その米を半分に分け家を飛び出していきました。そして戻ってきて、こう言いました。『裏の人たちも何も食べていないんです。』テレサは、その言葉を聞き、何ということだろう。この人は、自分たちも飢えているのに他人の飢えを思いやっている。与えようとしている自分が与えられ、慈しみを教えられているのに気好き、胸が熱くなり、涙を流したそうです。
【3】
神の愛の宣教者会誕生
思いを新たにしたテレサは、子供達に字を教える青空教室を始めると子供達の数は、手に負えない程膨れ上がっていました。するとそこに心強い仲間が現れました。ロレットの教え子達です。教え子達は、テレサの志し、信念に共感し、テレサと共に、歩むことを決意したのです。一人また一人と、増えていった活動に、今度は、進んで食べ物やお金を寄付してくれる人達まで現れました。こうして、1950年10月7日、テレサ達の活動は、ローマ法王ビオ12世から正式に認められました。神の愛の宣教者会が承認されたのです。マザーとしての本格的な旅立ちの時でした。貧しい人達の最も貧しい人達に仕える。これが彼女達の誓いでした。ここでは、こんなエピソードがありました。マザーは、ローマ法王バチカン幹部に対し、神の愛の宣教者会設立を願い出ていました。しかし、大半の方は、反対していました。ある時、バチカン幹部より、活動の実態を調査する目的でマザーの元に神父が訪れました。神父は言いました。『あなたは、なぜこんなことを始めたのですか?』マザーは、言いました。『私は、偶然に、本当に偶然にイエス様と話し、お声を聞きました。新しい修道会をお望みなのは、イエス様なのです。イエス様のご意志でなければ、とても今していることなどはできません。私は、キリストの生きているお体に触れているのです。飢えや病気で苦しんでいる人の体に触れる時、私は、何の手柄も立てていません。私が今までにしてきたことは神のご意志なのです。私は神の手に握られた小さな鉛筆です。お書きになるのは、神なのです。』この言葉を聞いた神父は、この人は、神に選ばれた人であったのだと認識し、その旨をローマ法王に報告しました。バチカンは、このマザー達の活動が神のご意志であることを認めました。こうして新しい修道会、神の愛の宣教者会が設立されたのです。
【4】
死を待つ人の家
マザー達が、まず手を差し伸べたのは、道端に死に逝く人達でした。この時の体験をマザーは、こう言っています。体中、ウジ虫だらけで誰一人近寄ろうともしませんでした。『体を洗ってあげる』とマザーは言いました。彼は『なぜこんなことを?』 マザーは答えました。『あなたを愛しているからよ』微笑みを讃えながら息を引き取った男の手は、マザーの手を、しっかりと握りしめていました。これをきっかけにマザー達は、死を待つ人の家を探しました。そして、見つけたのが、歴代ヒンズー教を祀っていましたが、今は空きや同然の家でした。ここでは、こんなエピソードがありました。マ ザー達は、この部屋に死に逝く人達を次々と運びます。しかし、その光景を見て、地元(ヒンズー教)の人達は、黙っていませんでした。その理由は、このよう な神聖な場所に、死に逝く者、汚れた者を置くことは、許されぬ行為であり、意味の無いこと、ということでした。そして、その家に石を投げ、マザー達を追い 出そうとしました。ところが、マザー達は、いっこうにその部屋を出ようとはしません。たまり兼ねた群衆の中の一人が部屋の中に入り、マザーに言いました。 『出て行け、死にそうな人間に無理やり洗礼を受けさせるつもりか』 マザーは、答えました。『どの宗教も歓迎します。良き信者であれば、それで十分です。キリスト教、イスラム教、勿論ヒンズー教でも同じです。』と言い、マザーは、命尽きようとしている者に最後の看護をします。死に逝く人が安らかな笑みを浮かべている光景を目にしたヒンズー教の者は、唖然とし、その場を静かに立ち去りました。そして、群衆の前に立ち、こう言いました。『追い出してもいいのか、身内からも見放された人を世話してくれているのに、あのマザーは、女神のように慈悲深い人だ』。こ うして、反発していたヒンズー教の人達は、騒ぎを止め、マザー達を受け入れたのです。死を待つ人の家ができて後、約58000人が収容され、その半数が息 を引き取りました。路上から瀕死の状態で収容された彼らは、体を洗い清められ、温かいスープが与えられ、シスター達に優しく語りかけられながら穏やかに息 を引き取っていきます。貧しい人が死ぬまで見捨てられたままにならないように、そう願うマザーは言います。『誰からも愛されず必要とされない心の痛み、これこそ最も辛いこと本当の飢えなのです。』マザーは、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われることの大切さを知っていました。マザーは、シスター達に、こんな教えを残しています。『恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。』
【5】
孤児達の家
1955年(昭和30年)マザー達が次に開いた孤児達の家。ここでの子供達は、親の顔を知りません。中にはゴミの中の捨てられていた子もいます。シスタ-たちが母親となって抱きしめることから始まります。子供達にマザーは微笑みます。『あなたも望まれてこの世に生まれてきたのですよ』しかし、長年をかけて広がっていった活動に、こんな批判も浴びせられました。『政治や経済の仕組み社会を変革しなければ何も変わりはしない。』でもマザーは、こう言って笑いました。『私は、ある人の世話をし、できればもう一人世話をするだけです。』この孤児院で育てられた子供達は、この後、色々な場所で社会に貢献し、結果を残しています。マザーは、どんな人も、この世に生を受けるということは、使命を持って生まれてきている、 と言うのです。マザー達の活動は、どんどん広がっていきました。1957年(昭和32年)ハンセン病の巡回診療を開始する。1965年、インド国外での最 初の修道院をベネズエラに開設。1968年、西ベンガル州にハンセン病患者のコミューン「平和の村」を開設。1975年、学校・病院・作業所持つ複合セン ター「プレム・ダム」を開設。
【6】
ノーベル平和賞受賞
1979年(昭和54年)ついに、テレサの活動は、国際的に認められるようになります。ノーベル平和賞がマザーに受賞されたのです。マザーは、この時、こう言いました。『私は受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。』そして、なんともらった賞金の全額を寄付してしまったのです。受賞後も、マザーは、シスター達と一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活をほとんど変えずに行い続けていました。毎朝、4時半に始まる瞑想と祈り、それに続く毎日の過酷なまでの活動、彼女達の持ち物は、サリーと洗濯のバケツだけ、まるで苦行のように見えながら、彼女達の表情からは、微笑みが絶えません。人間の最も悲惨な姿に接している彼女達は、何故こんなにも輝いていられるのか? マザーは、答えます。『私たちは、貧しい人達に与えるよりも多くのものを貧しい人から与えられているのです。私たちは、貧しい人と共に生きることに喜びを感じます。それが神様からの素晴らしいプレゼントなのです。』人が他の人間に、ここまで尽くしながら絶えることの無い微笑み。ノーベル平和賞と言っても、政治家や活動家が受賞する際には、委員会の中でも意見が分かれることが多いそうですが、マザーの受賞の時には、満場一致だったそうです。また、受賞後に問題が生じることもあるようですが、マザー死去の報を聞き、委員長は、「マザー・テレサの平和賞受賞は我々が大きな喜びと満足感を持って振り返ることのできる受賞だった」と語っています。
【7】
最後にマザーテレサが残したメッセージとは何か
1997年、9月5日(日本時間9月6日午後6時)マザーは、もう息が出来ないわ」の言葉を残し永眠。9月13日、国家元首でも首相でもないのに、インドで異例の国葬が行われました。世界中の国々から代表者を含め、またインドの国民の大半の方が、この国葬に100万人参列したそうです。マザーがどれほど世界中の人々に愛されていたかが、わかります。生前マザーが日本に来日していた時、こんなメッセージを残していました。『日本は、物質的には豊かですが、精神的に皆、豊かだとは限りません。ま ずは、自分の屋根の下から考えて見なさい。ご両親の悩みを聞いていますか? 兄弟と喧嘩してませんか? お爺ちゃん、お婆ちゃんを大切にしていますか? それができたら自信がつきますから、次は、学校、友達、社会へと広がっていきますよ。やることいっぱいありますから頑張って下さい。』
『パンへの飢えがあるように豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。誰からも愛されず必要とされない心の痛みです。与えて下さい。あなたの心が痛むほどに』
ペタしてくださったライオンハートさんのブログ にお邪魔しまして、
この「マザーテレサの生涯」の文章を読み、心を打たれました。
最後の一文、最後の言葉を残しておきたくて、許可を得て引用
させていただきました。
『日本は、物質的には豊かですが、精神的に皆、豊かだとは限りません。ま ずは、自分の屋根の下から考えて見なさい。ご両親の悩みを聞いていますか? 兄弟と喧嘩してませんか? お爺ちゃん、お婆ちゃんを大切にしていますか? それができたら自信がつきますから、次は、学校、友達、社会へと広がっていきますよ。やることいっぱいありますから頑張って下さい。』
『パンへの飢えがあるように豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。誰からも愛されず必要とされない心の痛みです。与えて下さい。あなたの心が痛むほどに』
初めのほうは失礼ながら流し読みだったのですが、改めて、
全体が繋がる必要があると思いましたので、やはり全文を引用
させていただきます。
時々読み返すために。
-----------------以下引用------------------
【はじめに】
この記事がある方にとって励みになるか否かは、分かりませんが、その方の為に公開します。一読されていれば幸いです。【1】
マザーテレサの誕生。マ ザーテレサと言えば、大半の方が知っておられると思いますが、マザー(アグネス ゴンジャ)は、1910年(明治43年)スコピア(現マケドニア)のアルバニア商人の家庭に生まれ、両親は、アルバニア系の熱心なカトリック教徒でした。 1928年(昭和 3年)アイルランドのロレッタ修道会に入会。1937年(昭和 12年)終世誓願を立て、シスター・テレサとなります。その後、修道院の女学校(聖マリア高等学校)に赴任し、歴史と地理を教え、充実した毎日を送っていました。しかし、時代がテレサを揺さぶりました。それは、1939年、第二次世界大戦勃発、戦火に覆われ、1943年のベンガル大飢饉に襲われた人々は、難民となってあふれ、汚物にまみれた物乞い、栄養失調の子供達、その悲惨な状況は、テレサの静かな学園の中にも伝わってきました。その時、テレサは、悩んでいました。神に祈るだけで何もせずにいて良いのだろうか、私は、完全には神に捧げていない気がする。しかし、終世を捧げると誓ったシスターが勝手に行動することは、許されませんでした。1946年(昭和21年、9月10日)この時、テレサに信じられないような出来事が起こりました。黙想のためダージリンへ向かう汽車の車中で、神の声を聞いたのです。そして、『病める者に手を差し伸べて、家も無く、飢えている者を助けよ。神の手となり、愛を持って貧しい者の中の最も貧しいものを救え。』という”神の召命”を受けたのです。これをきっかけにテレサは、清らかな学園生活を捨て、修道会を出て貧しい人々の中に入ることを決意します。この瞬間、インドに偉大なる聖者マザーテレサが誕生したのです。
【2】
新たなる出発テレサが選んだ地は、頼る者も無いカルカッタのスラム街でした。しかし、テレサが飛び込んだこの地の酷さは、予想を超えており、まさに試練の連続でした。毎日わずかな食べ物と薬を携え、歩き回り、与える者が無ければ、テレサ自身が人々の施しを受け、それを分け与えるしかありません。それでも無数の人が飢え、自分のしていることは、大海の一滴(ひとしずく)。時には、荒手の布教活動だと追い払われたり、物乞いと間違いられる始末。世間の批判も厳しく、スラム街のシスターと 馬鹿にされていました。身も心も疲れ果てたテレサは、満ち足りた修道院に帰りたい誘惑に駆られたこともあったそうです。そんなある日、一人の少女に出会い ました。少女は、『お金を下さい、シスター』、と言いました。テレサが、その少女の家にいくと母親と子供達が飢えで痩せ細って、目を光らせていました。テレサが持っていた僅かな米を差し出すと母親は、その米を半分に分け家を飛び出していきました。そして戻ってきて、こう言いました。『裏の人たちも何も食べていないんです。』テレサは、その言葉を聞き、何ということだろう。この人は、自分たちも飢えているのに他人の飢えを思いやっている。与えようとしている自分が与えられ、慈しみを教えられているのに気好き、胸が熱くなり、涙を流したそうです。
【3】
神の愛の宣教者会誕生思いを新たにしたテレサは、子供達に字を教える青空教室を始めると子供達の数は、手に負えない程膨れ上がっていました。するとそこに心強い仲間が現れました。ロレットの教え子達です。教え子達は、テレサの志し、信念に共感し、テレサと共に、歩むことを決意したのです。一人また一人と、増えていった活動に、今度は、進んで食べ物やお金を寄付してくれる人達まで現れました。こうして、1950年10月7日、テレサ達の活動は、ローマ法王ビオ12世から正式に認められました。神の愛の宣教者会が承認されたのです。マザーとしての本格的な旅立ちの時でした。貧しい人達の最も貧しい人達に仕える。これが彼女達の誓いでした。ここでは、こんなエピソードがありました。マザーは、ローマ法王バチカン幹部に対し、神の愛の宣教者会設立を願い出ていました。しかし、大半の方は、反対していました。ある時、バチカン幹部より、活動の実態を調査する目的でマザーの元に神父が訪れました。神父は言いました。『あなたは、なぜこんなことを始めたのですか?』マザーは、言いました。『私は、偶然に、本当に偶然にイエス様と話し、お声を聞きました。新しい修道会をお望みなのは、イエス様なのです。イエス様のご意志でなければ、とても今していることなどはできません。私は、キリストの生きているお体に触れているのです。飢えや病気で苦しんでいる人の体に触れる時、私は、何の手柄も立てていません。私が今までにしてきたことは神のご意志なのです。私は神の手に握られた小さな鉛筆です。お書きになるのは、神なのです。』この言葉を聞いた神父は、この人は、神に選ばれた人であったのだと認識し、その旨をローマ法王に報告しました。バチカンは、このマザー達の活動が神のご意志であることを認めました。こうして新しい修道会、神の愛の宣教者会が設立されたのです。
【4】
死を待つ人の家マザー達が、まず手を差し伸べたのは、道端に死に逝く人達でした。この時の体験をマザーは、こう言っています。体中、ウジ虫だらけで誰一人近寄ろうともしませんでした。『体を洗ってあげる』とマザーは言いました。彼は『なぜこんなことを?』 マザーは答えました。『あなたを愛しているからよ』微笑みを讃えながら息を引き取った男の手は、マザーの手を、しっかりと握りしめていました。これをきっかけにマザー達は、死を待つ人の家を探しました。そして、見つけたのが、歴代ヒンズー教を祀っていましたが、今は空きや同然の家でした。ここでは、こんなエピソードがありました。マ ザー達は、この部屋に死に逝く人達を次々と運びます。しかし、その光景を見て、地元(ヒンズー教)の人達は、黙っていませんでした。その理由は、このよう な神聖な場所に、死に逝く者、汚れた者を置くことは、許されぬ行為であり、意味の無いこと、ということでした。そして、その家に石を投げ、マザー達を追い 出そうとしました。ところが、マザー達は、いっこうにその部屋を出ようとはしません。たまり兼ねた群衆の中の一人が部屋の中に入り、マザーに言いました。 『出て行け、死にそうな人間に無理やり洗礼を受けさせるつもりか』 マザーは、答えました。『どの宗教も歓迎します。良き信者であれば、それで十分です。キリスト教、イスラム教、勿論ヒンズー教でも同じです。』と言い、マザーは、命尽きようとしている者に最後の看護をします。死に逝く人が安らかな笑みを浮かべている光景を目にしたヒンズー教の者は、唖然とし、その場を静かに立ち去りました。そして、群衆の前に立ち、こう言いました。『追い出してもいいのか、身内からも見放された人を世話してくれているのに、あのマザーは、女神のように慈悲深い人だ』。こ うして、反発していたヒンズー教の人達は、騒ぎを止め、マザー達を受け入れたのです。死を待つ人の家ができて後、約58000人が収容され、その半数が息 を引き取りました。路上から瀕死の状態で収容された彼らは、体を洗い清められ、温かいスープが与えられ、シスター達に優しく語りかけられながら穏やかに息 を引き取っていきます。貧しい人が死ぬまで見捨てられたままにならないように、そう願うマザーは言います。『誰からも愛されず必要とされない心の痛み、これこそ最も辛いこと本当の飢えなのです。』マザーは、最期の一瞬だけでも人間らしく扱われることの大切さを知っていました。マザーは、シスター達に、こんな教えを残しています。『恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。』
【5】
孤児達の家1955年(昭和30年)マザー達が次に開いた孤児達の家。ここでの子供達は、親の顔を知りません。中にはゴミの中の捨てられていた子もいます。シスタ-たちが母親となって抱きしめることから始まります。子供達にマザーは微笑みます。『あなたも望まれてこの世に生まれてきたのですよ』しかし、長年をかけて広がっていった活動に、こんな批判も浴びせられました。『政治や経済の仕組み社会を変革しなければ何も変わりはしない。』でもマザーは、こう言って笑いました。『私は、ある人の世話をし、できればもう一人世話をするだけです。』この孤児院で育てられた子供達は、この後、色々な場所で社会に貢献し、結果を残しています。マザーは、どんな人も、この世に生を受けるということは、使命を持って生まれてきている、 と言うのです。マザー達の活動は、どんどん広がっていきました。1957年(昭和32年)ハンセン病の巡回診療を開始する。1965年、インド国外での最 初の修道院をベネズエラに開設。1968年、西ベンガル州にハンセン病患者のコミューン「平和の村」を開設。1975年、学校・病院・作業所持つ複合セン ター「プレム・ダム」を開設。
【6】
ノーベル平和賞受賞1979年(昭和54年)ついに、テレサの活動は、国際的に認められるようになります。ノーベル平和賞がマザーに受賞されたのです。マザーは、この時、こう言いました。『私は受賞に値しないが、世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。』そして、なんともらった賞金の全額を寄付してしまったのです。受賞後も、マザーは、シスター達と一緒に、路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくるといった生活をほとんど変えずに行い続けていました。毎朝、4時半に始まる瞑想と祈り、それに続く毎日の過酷なまでの活動、彼女達の持ち物は、サリーと洗濯のバケツだけ、まるで苦行のように見えながら、彼女達の表情からは、微笑みが絶えません。人間の最も悲惨な姿に接している彼女達は、何故こんなにも輝いていられるのか? マザーは、答えます。『私たちは、貧しい人達に与えるよりも多くのものを貧しい人から与えられているのです。私たちは、貧しい人と共に生きることに喜びを感じます。それが神様からの素晴らしいプレゼントなのです。』人が他の人間に、ここまで尽くしながら絶えることの無い微笑み。ノーベル平和賞と言っても、政治家や活動家が受賞する際には、委員会の中でも意見が分かれることが多いそうですが、マザーの受賞の時には、満場一致だったそうです。また、受賞後に問題が生じることもあるようですが、マザー死去の報を聞き、委員長は、「マザー・テレサの平和賞受賞は我々が大きな喜びと満足感を持って振り返ることのできる受賞だった」と語っています。
【7】
最後にマザーテレサが残したメッセージとは何か1997年、9月5日(日本時間9月6日午後6時)マザーは、もう息が出来ないわ」の言葉を残し永眠。9月13日、国家元首でも首相でもないのに、インドで異例の国葬が行われました。世界中の国々から代表者を含め、またインドの国民の大半の方が、この国葬に100万人参列したそうです。マザーがどれほど世界中の人々に愛されていたかが、わかります。生前マザーが日本に来日していた時、こんなメッセージを残していました。『日本は、物質的には豊かですが、精神的に皆、豊かだとは限りません。ま ずは、自分の屋根の下から考えて見なさい。ご両親の悩みを聞いていますか? 兄弟と喧嘩してませんか? お爺ちゃん、お婆ちゃんを大切にしていますか? それができたら自信がつきますから、次は、学校、友達、社会へと広がっていきますよ。やることいっぱいありますから頑張って下さい。』
『パンへの飢えがあるように豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。誰からも愛されず必要とされない心の痛みです。与えて下さい。あなたの心が痛むほどに』