明け方です。
頭がおかしいです。
だから、おかしな話を書くかもしれません。明日の朝になったら、(もしかして今日の昼かも)消してしまうかもしれません。
でも、とりあえず、書きます。
反論、「馬鹿げてる」的中傷、ご意見等いろいろあるかもしれませんが、ご了承ください。
映画『神は死んだのか』の予告編を見ました。
本編を借りようとしたら、ツタヤにありませんでした。
アメリカで実際にあった訴訟をモデルにしたもので、無神論者で生徒にも無神論を強要する哲学の教授VSキリスト教徒の新入生のディベートのお話。
テーマは、神の存在/非存在を立証できるのか。
面白いテーマです。
おお!と思って見ているうち、ふと思いました。
彼らは、物理学を引用して論争をしていましたが、文化論者なら、これにどう対処するのか。
一文化論学習途上者の結論としては
そもそも神の存在/非存在の立証は問題ではない。
というもの。
もちろん、この問題を軽視しているわけではありません。
ただ、文化論を学ぶ上で、「神」は文化形成のとても大きな原動力となっていることに気づきます。
つまり、存在していようがいまいが、それで文化が形成されるのです。
神を通して世界を認識する方法があるのです。
神のいる歴史がありました。
神に関して芸術が生まれました。
神に関わって、論争が繰り広げられました。
文化論学習者としては、これで十分なのです。
人々の、世界に対する知覚に、神は大きく関与する場合がある。
以上なのです。
だから、神の存在を無視できません。
物理学者は、物理学の法則によって宇宙を解明します。
その問題点は、人間の知覚・認識と物理学の法則にズレがあること。
いくら物理学で地動説を唱えられても、証明されても、人間にとっては「星は空を動く」。
キリスト教やその他信仰を通して、時間や空間が人間にとって認識された歴史があるのなら
その知覚・認識によって構成された世界もまた、物理と同様、メカニズムと法則を有しているのです。
これが、「私」的文化学習。
目の前に、何か物体があって、
たとえ、物理が、「これは黒い球体だ」と証明しても
それが人間にとって「白い立方体」と認識され、文化が形成されているのであれば(脳科学的な問題を言っているのではなく、その物体を取り巻く文化形成を言っています)
それが「白い立方体」である文化のメカニズムがあるのです。
自分で言ってて意味が分からなくなってきました 笑。
もしかしたら、
文化論学習途上者ではなく、本当の文化論者なら、もっと違う見解があるのかもしれませんが。
私はあくまで明け方に頭がおかしくなった学習途上者ですので
所詮たわごとと、聞き流していただければ幸いです。
結論としては、映画は見ません。
それだけです。笑