立て込みまくってた雑務が一旦終了する。
昨夜は久々に、無気力でご褒美も要らない状態だったので、脳の飽和感をそのままに変な時間に寝た。
ヒップホップばかり聴いている。苦境やらそう言うものが土台にある音楽は、力強い何かが音と同時に放たれているので、支えられてる気になる。
教育よりも政治や経済に原因があると思っていたけど、フィンランドの教育についてのインタビューを見て考えが変わった。
良い点数を取ることを勉強の動機にしてしまうと、生き方にも汎化されて、人生をそういった点数稼ぎと見なす大人が作られてしまうリスクがある。フィンランドの1日の平均就学時間は4時間で、テストがあるのは理数科目くらいらしい。消費税が24%もあるフィンランドだが、幸福度が世界一位なのは、「特別幸福だと感じている人が多いのではなく、特別不幸だと感じている人が少ない」ことから来ているらしい。
日本はどうだろうか。
普通に考えて、俺たちが間違っているわけじゃないのだ。
自分を責めてしまうのも、自己責任というこの国でよく使われる言葉を代々踏襲してきたことにもよるだろう。
自分の能力が他者と比べて差異があるのは当たり前のことだ。
それを前提としない日本の働き方や社会のあり方は、改めて人間を軽視しているように思ったりする。
仏教を学んでいた頃は、日本には宗教性を持つと言う考え方自体がないことが、幸福度が低いことの一因になっていると思っていた。自殺率が高いのは、宗教的な観点がない故に、最後の防波堤としての倫理観がなかったり、自身を物のように扱っている人が多いからだと。
でもそれだけじゃない。
フィンランドの人たちは、自然の美しさに歓びを感じたり、そういうことに幸せを見出しているらしい。
日本人も、そういう性質は持っている人は沢山いるが、国民全体が共有してるほどではない。

幼い頃から、人が人をいじめたり、見下したり、仲間外れにしたりするのを見てきた。
大人になればそんなことはないと思っていたけど、大人になっても、法律が多少守ってくれるということ以外は大して変わらなかった。
今もそのことには疑問を呈している。
自分の自己肯定感というか自尊心が低下している人が、他者に攻撃し、自分の尊厳を守る。いじめの原理なんてそんなものだ。
攻撃も逃避も、防衛規制なのだから。
「これはおかしいな」とか「これなんか違うんじゃない?」と思うことに蓋をしていかないと生きられないのが日本の現状だと思う。
でもその自分の声を否定してしまうと、自分が「一人の(本来は自由な)人間として」生きている意味も否定することになるのではないだろうか。
私自身、自分の声を聞かないようにしたら多少楽になったが、時間が早く過ぎるようになった。
何も考えない方が気楽に生きられるのは真理だが、ただ蓋をして誤魔化すことに慣れただけのこと。鈍くなることを許容した自分をまだ忘れてない。
みんなは、自分の声を、どれくらい自分で受け止めているんだろうか。