私は恵まれていたので、本当に苦しい時にストップをかけたり、それを止めてくれる人が周りにいた。
もしそれがなかったら、別に今ここにいなくても不思議じゃないようなリスクのある局面が数度あったけど、
実際に今私はなんとか生きている。
脚色せず、見栄を張らず、本音で人と話したくても、なかなかできる場所がない。お金を払わないと本音で喋ることができない。困ったことだ。
重い荷物は、嘆いたり、人には見せたくないところを見せたりする行為をしないと、しっかり下ろせない。
共感力のない人に話せば自分が傷つくことになる。
私もそれができなかったから、日記やこのブログで書いていた。

人の心は、本来とても繊細にできているが、それに蓋をして振る舞うことが社会では一種の美徳のようになっている。
繊細な気持ちは蓋の中の奥底に押し込められて、ないものかのように扱われるが、実際はその中身がずっと心を蝕んでいる。
いろんな人の生き方を眺めて、自分と照らし合わせてもそう思う。
あるものをないものにしようとしても、結局はあるのだから。
生きていくために必要なものは、安心感と伴走者、おそらくこの二つだと思う。
そのどちらもない状況だと、人はとても厳しい状況になる。
身を持ってそれを経験してきたので、私はいつか誰かの伴走者になりたいと思っている。
厳しい状況にあるのは、本人のせいではない。それは間違いなく言える。それを伝えながら目的地まで一緒に歩きたい。
自分を大切にすると言うのは、ネガティブな感情を吐き出すことも含まれる。
私が感謝している人には、ただ生きていて欲しいなと思う。

先日、地元の友人の相談に乗っていた時に、彼が「今の自分は本来の自分の力を出せていない。」ということを言っていた。
彼は10年以上、その状況で一人苦しんでいた人だった。
私が彼に言ったのは、「お前が、今は不完全だと自分自身のことを思っていても、俺にとっては、お前がどういう状況でも完全な存在だよ。お前が今後どう変わって言っても、俺にとっては大きく変わらないよ。ただ元気でいてくれたら良いなぁと思うくらいで、別にどうなって欲しいとか、何も思ってないよ」ということ。
ただ生きていてくれればそれで良いなと毎日思います。
私が尊敬する人は、みな人の痛みを、痛すぎるほどよく知っていた人ばかりでした。彼らと話すときだけ、本音の自分でいられます。