社会というのは複雑極まりない。
近くに善き人が一人でもいれば、その人が支えとなって、道が完全に消えてしまうことはなくなると思う。
そうでなく本当のひとりの場合は、そこから抜け出すはっきりした方法は、私には分からない。そうなったら神社に行くか神頼みするかしか、私もできなかった。
追い詰められると神様が浮かぶ、というか、神様くらいしか浮かばない。

他人にはどうしても綺麗な言葉で伝えようとしてしまう。
虚勢を張るのは、その人に認められたいからかもしれないし、その人にうまく伝わらない気がして大袈裟にしているのかもしれない。
齟齬があると乖離していく気がして、だから大切な言葉は内に秘めておくことが多かった。
人はすぐジャッジをする。ジャッジとは価値判断のことだ。
価値判断とは、ある基準(モノサシ)があらかじめあって初めて成立するもので、ジャッジをするということは、何かと比較をしているということだ。
私たちは社会という混沌とした場で生活しているから、どこを見ても人がいる。
人がいれば、なぜか勝手に比較してしまう。
そうやって優越感に浸ったり、劣等感に苦しんだりする。
そんなことを繰り返す内に、他人を基準とした不幸のモノサシが出来上がってしまう。
誰かに負けないように、とか、輪から外れないように、という気持ちが強いと、生きていく道がハードになる。
ハードな道にこそ成長があると思っている人もいるが、実際はそんなものはないと私は思う。成長というより、順応・適応、最適化とかそんなとこだろうか。
成長という言葉も、価値判断に過ぎない。
なんでこんなことを書いているのかというと、また今日、ひとまわり年上の人から、価値判断の言葉をかけられたからだ。少し私自身が今、嘆きたかったのかもしれない。
その人からすると、自分(私)くらいの年齢では所帯を持つべきだという考えがあるようだ。
嫌な気持ちに一瞬なったが、相手の価値観に共感できたから、相手を否定するような気持ちにはならなかった。
以前より動揺しなくなった自分がいる。
責任を負ったり、経験をたくさん積むことが、歳を重ねることだと思っている人はたくさんいる。
私もかつてはそう思っていたが、いろんな人と関わることで、その思いは消えていった。

何かを得ていく時期が人生のどこかで一度くらいはあっても良いだろうとは思うけどね。
赤ちゃんや、高齢者の方々は、日々何かはっきりとした労働をしているわけではない。
重い知的障害がある人は、ずっと時間の管理をされた中で施設で暮らしている。おやつの時間を楽しみにしながら。
重めの鬱に罹患された人は、今日明日を穏やかな気持ちで過ごせたら、それでハナマルである。
共通してやっているのは、呼吸をして、ご飯を食べて、寝ることだ。
私は別に苦労をしてきたわけではないが、いろんな「思い通りにならない人生を全うしている人」にたくさん会ってきたから、言えることがある。
世間の価値観で生きている人は、辛そうに見える。世間の価値観で歩ける強さを持ってしまうと、苦しくなるのかもしれない。
思い通りにならない人生を生きている人は、自分で自分だけのモノサシを作る機会を与えられている。今まで使ってきたモノサシが合わないのなら、自分で考えて作るという機会だ。
だから何かを喪失したり、軌道を脇道に逸れるというのは、自分のモノサシを持つ上で必要なことなのだと思う。自分で作ったモノサシは、簡単には折れはしない。