シーソーゲームでも。

景色は変わっていくから、手だけは動かす。

足が動かない時は、手を動かす。手が動かない時は、目を閉じて、浮かんできたことをただ流す。

 

最近、スピリチュアルなことに目が行きがちで、ちょっと不思議なことが起こるとgoogleで検索している。

黒いアゲハ蝶は相変わらずよく見るし、今日はバイクのシート裏に茶色のカマキリが隠れていた。

変なタイミングで変なことが起きたり、というのは以前もあったけど、最近は特によく多い。気づかなければ流せるほどの小さなものだけれど。

これまでずっと、数年に一度正夢(デジャブ?)を見るし、昔から予定調和を生きてる気もしないでもない。これって皆あるんだろうか。

 

 

引っ越しをする前くらいから、一人で神社に行くようになった。

神社にもいろいろあって、良い感情を持つ神社と、そうでない神社がある。

そんなことに気づいて、好きな神社を見つけて、人気(ひとけ)のない時間に一人礼拝し、手を合わせたりしていた。

 

そんなことを数ヶ月続けて、それに意味があったのかは不明だが、小さく変化が起こっていった。

霊的なものとかスピリチュアルとか、そういう言葉で言うべきではない気がする。

何かと繋がるような感覚を持てる神社や場所というのは実際にある気がする。


神社で手を合わせても、礼をしても、当然その瞬間には何にも変化は起こらない。風も吹かないし、どんぐりも落ちてこない。

でも、そうやって言葉ではない何かで、世界に対し何かを伝えようとする時、心の中に何か違うものが発生する気がしている。

神社で祈ったり願ったりするのは、神様に向けてというより、世界やこの青空に向けて発していることに気付いた(私の場合)。

「おーい。見てるかぁ。」って。🙂

 

 

綺麗事のように書くが、神社に行くときは、本当にどうしようもなくなった時ばかりだった。

やっとこの歳になって、神社の存在理由が分かってきた気がする。

神様は、無視してる時もあるけど、見てる時は見ている気がする。神様というより、世界や青空様、とでも言おうか。

 

息が詰まりそうな瞬間も多々あるが、「人生は修行だよな。そもそもが楽なもんじゃないんだったわ。」と自戒することで、冷静になれる自分がいる。

まだ死ぬのは先のほうが良いけど、明日何かあっても後悔はやっぱりない。人の生や死は天命と呼ばれる部類の出来事で、個人の意思で操作できるものではないようにも思う。

そんなことをツラツラ友人に話したら、あまり理解できないようだった。そんなものだ。

 

暗い場所で見る光や希望は、明るい場所で見るそれよりも輝いて見えた。

遠回りのように思えたことが、最短ルートだったと気づくのは、何かの納得に辿り着けた時だ。ゴールではなく、納得という感情。

まだそこには至ってないが、遠回りも近道でも今はどっちでもいい。呼吸は続いて、水は流れて、時は止まらない。生きているということ。