日々を生き抜くのはずっと続けている。

何かが不足しているのがわかる。それでも歩き続ける。

嫌なものに蓋をする、というお得意の方法かもしれない。

 

愚直さや、誠実さを武器と思っていたが、これは今の社会では武器というより毒になることもある。

社会というのはいつまで経っても人間の生態とはマッチしない、無機質なものを含んでいると思う。

冷たい、他人事の、よそよそしい表情の社会。

 

人間のより良い生き方に欠かせないのは、人との対話、それも上限関係ではなく対等な関係での対話であると思う。

社会は競争の側面を持っているので、いつまで経っても上下関係から抜け出せない。

 

NVCというものをメンターに教えてもらってから、自分のこれまでをちゃんと振り返れるようになった。

これまでのどの地点にも、自分が大切にしていた価値観があって、そこに間違いは一つもなかった。

一つも、本当になかったのだから、すごいことだと思う。

強いて言えば、自分のことを知っているのが自分一人だということが、苦しさの原因だったのかもしれない。

自分の本音を自分一人で持ち続けている人は、どこかでバランスを取らないと、その重さによろけたり、潰れたりする。

なぜ自分一人で持ち続けるかというと、そこにもその人が大切にしたいことがあるのだ。

 

誰もが自分のことをちゃんと分かって、自分の大切にしたいことに基づいて生きているなら、大きなトラブルは避けられるのかもしれない。誰かの価値観や、他者から押し付けられたものを自分の価値観とすると、本音のところがどうにも見えにくくなる。

本音というのは、今どういう状況であっても、過去や未来ではなく、この今の自身の感情に存在している。息づいているとも言える。方向を探る時は、今の感情にフォーカスすれば良いのだと思う。

 

 

 

 

禅語を流し見していたら、好きな言葉があった。

「前後裁断」

これは、過去や未来を断ち切って、今を生きるということを意味している。

 

今を生きる猫や犬と、私たち人間は、どう違うのだろうか。

 

何かの本で、「今の社会は、生を前提とした流れの中で人々が生きている。しかし数百年前までは、死を前提とした流れの中に人は生きていた。死というものが遠い未来に起こるような他人事ではなく、常に生活に寄り添った中に存在していたからだ。」

こんなようなことが書かれていた。

 

私はもう、死を前提とした流れの中で、生を感じられるように生きようとしている。そんな風に生きてる人は周りにはいないが、明らかに「砂時計」が生活の中にイメージされるようになった。

実際の生活は外見からは何も変わらないが、内面は諦めや静けさ、水の流れが入り混じったような、不思議な景色が息づいています。

悪いことではなく、人によっては多分何十年後かに感じることを、私は早めに感じているのだと思っています。