今がどんな環境であっても、

生きていく意味が自分で分かっていれば、それで良いのだと思う。


それがなくなると、景色がどんどん殺風景になっていく。

そうなる前に食い止めたい。

 

厳しい状況の時ほど、光は見つけやすかった。

私にとっての、音楽や、詩、自然は、そういうものだった。

自分に投げかけて欲しい言葉を誰かに言わそうとして、

そういう徒労に疲れてきた頃、自然を見にいくようになった。

 

 

自然は、普段縛られている「時計」や「カレンダー」、「社会年齢」などとは全然関係ないところに在る。

 

自然がいつもマイペースに進行していることに気づくと、自分もそうありたいと思った。

この長すぎる時間の流れに辟易を通り越して無力を感じた時、

自然に触れているとそういった空白さえも、「本来そういうものなのかもしれない。」と思えた。

 

生きる意味が分かっていれば、

他に考えるべきことはないのかもしれない。

そのヒントは、好きなものや、なんとなく足を運ぶ場所が教えてくれた。

 

 

これまでに、生きる意味を自分ではっきりと持てたことはなかった。

生活する意味も、他者や、自分の生存本能から強制されてきたものだ。

 

一応、一通り、その流れを踏襲してみた。

周囲の人間に勧められた生き方をしてみたんだ。

けれど、薄々気づいてはいた。

これが、幸せとどう関係があるんだろう、と。

周りと調和すると、自分と調和しなくなる。

何がおかしいんだろうか、と。

 

一定の収入と、一定の貯蓄、一定の所有物と、一定の人間関係。

そのバランスを崩さないようにすればするほど、

譲歩することが増え、自分を捻じ曲げることが増え、

協調する為に自分を見失うことが増えた。

タバコもストレスも、スマホ依存も、朝の体調不良も。


周りの人はこの生活を普通にやっているが、俺には時限爆弾の生活をしているように思ってしまうことがある。

いつ爆発するかも分からない爆弾を抱えて生きているようだ。

キャパオーバーなのかもしれない。


いつも逃げるカードを用意している生き方にも疲れてきた。



自分を見失わないようにするのと、

自分を作っていくのは、違うことだ。

 

与えられたものを一生懸命やっていても、その枠の中からは出られないと私は思う。

「やってる風」でやってるだけだ。

与えられたものの中に自分の欲しいものを見つけようとしたのが間違いだったのかもしれない。

最初から、そこにはなかったのかもしれない。

 

自分で作っていく、とはどういうことだろうか。

ライフデザインよりもっと手前のところ。

人生を創造する、ということ。

画用紙ごと新調すること?

ゼロをイチにすること。