今日もやむを得ず休んでいたが、身体自体は寛解したので、流石にどこかに行こうと少し離れた神社まで行ってきた。

神社に行ったは良いが、70代以上の人がたくさんいて、老後って結構暇なんだろうな、と改めて思った。

実際、老後でなくても、子育てがなければやんなきゃいけないことはあまりない気がする。人は本来ひまな生き物なのかもしれない。

 

最近ちょっと気持ちが堕ちたりしていたから、二礼二拍手一礼の後に、しばらく手を合わせてこんなことを心で願った。

「どうか、なんとかなりますように。」

 

陳腐な言葉だが、多忙な神様にはこれくらいシンプルな言葉の方が届くかもしれない。なんといっても願いの真剣さだけは、周りの参拝客とは違う自信がある。



神様が見ていたら良いな、と思いながら、

神様は時々よそ見をしているので、あんまり信用してない。

だれが各個人の身に起こる出会いやタイミングを操作しているのかな、とよく考える。

神様ではなく、なんだか気まぐれな猫みたいな存在が、神様の代わりを務めてるんじゃないのかな。

 

朝起きて、少し気持ちが暗くなって、起きて煙草を吸っていたら血液が循環し出して、

徐々に気分が戻ってきた。朝はいつも「この先どうなるんだろう。」が全方位から押し寄せてくる。

 

どんぐりが家の近くにたくさん落ちていたから、ちょっと拾ってきた。

どんぐりは昔から好きだが、なぜ好きなのか分からない。

好きなものは大抵、言葉にするのが難しい何かを合わせ持っている。

そういう不思議さが、「好き」という感情を継続させてくれているのかもしれない。



私は頭の中で、人にふざけたあだ名をつけたりするのを勝手にやってしまうことが多い。

小さい少年は「豆太郎」だし、太っている人は「コブタ」とか「おおぶた」とか勝手に言っている。動物の名前や擬音語みたいなのが好きだ。


本人に言ったら怒られるだろうなとちょっと想像しながら、「このこぶため」などと内心思っている時もある。

 

外の殻を強くしたのは良いが、肝心の中身はあの頃のまま。

結婚してもそんなに人は変わらないが、子を持つと人は変わる。

それを大人というなら、私はずっと子どものままだな。

大人に憧れた子どものまま。

 

生きていくことについて、とっても長い時間をかけて思索してみたけど。

「豆太郎」や「コブタ」で笑う自分はずっと変わらない。


あるべき姿ばかり探して、無理やりそれになろうとして、ポンっと穴が空いて空気が抜けていった。

あるべき姿、は何も教えてくれないんだと知った、私の場合。

私の「あるべき姿」は、お寺のことから影響受けたものばかりで、柔軟性の欠片もないものばかり。尖ったものは持つ人をも傷つける。

 

いろんなことに気づいたは良いが、気づきがそこらじゅうで多発して、断片があたりに散乱している。

まとまらなくなった。また小学校の卒業文集の「夢」のところを思い出した。

 

まだあの頃の夢を頭の中に潜めている自分がいる。本質はずっと変わらない。秤のように、手を離すと勝手に元の自分に戻る。