昔修行していた寺にふらりと立ち寄った。

階段を眺めていてなんとなく思った。


上った階段は終いには下りなくてはいけない。


階段を上れば見晴らしが良いとこに出れる。

だから皆頑張って、自分なりの階段を上っている。



齢をとると、今度は上ってきた階段を下りなくてはいけなくなる。それは積み重ねてきたものを手放していく作業。


階段自体、本来は上る必要はないものだと思うが、それじゃ刺激がないから皆上ろうとするのかな。


今あるものに満足さえできれば、もうそこで人生の景色の頂上に立っている。そこで完結する。


俯瞰すれば生きるとはそういうもので、生きてる間に良い景色を見るために、あれこれ苦悩しているだけなのだろう。


自分の悩みは常にちっぽけなのに、自分全体を覆って、世界全体が悩みの坩堝にあるように思わせる。

不思議なもので、自分が見ている景色を通して世界全体を想像するのが人間の習性で、


調子の良いときには世界は良く見えて

悪い時には逆になり

慈愛に満ちた時には世界を愛おしく思え

誰かを憎いときには世界を憎らしく思ったりする


自分の景色さえ安定していれば、世界がブレることも少ないが、

この世界で生きていくのは波の中を木船で進むようなもので、常に揺れ動いている。

良し悪しをつけないこと、つまり解釈をしないことが、禅僧や瞑想者の書いた本などで勧められているが、煩雑な日常の中でそうした無解釈無思考の実践をするのは非常に難しいことである。現に私がそうだった。



しかし、マインドフルネスや、坐禅などを日常の中に取り入れ、そうした状況を日常の中に少しでも作ることで、煩雑な中にも無解釈の状態を作れることが私なりに分かってきた。


明確に存在しないものを言葉にして、人間の共同体としては生きやすくなったが、個人規模で見たら私達は人との比較や、人からどう思われるかとか、そういうもので苦しむようになった。


無我である自己が生きるとはどういう状況なのか、それを考えていく上で、自分の呼吸に意識を向けたり、不要なものや関わりを減らしていくことが、私なりに答えに近づくプロセスになっている。


私の人生は明日突然終わるかもしれないし、思っているよりも長く生きることができる可能性もある。


どちらにせよ、すべてお借りしてるものであるので、自分のものと思っている事物は早々に手放し、もう少し気楽に日々を送っていきたいと思う。


意識的に行えることとしては、「いらないものは捨てる」こと。イメージしてみた時に明るい色合いを感じないものは、勇気を持って減らす努力をすること。


私はいろいろ積み重ねてきたように見えるが、全てレンタル品だと思えば、執着の混沌から逃れられるだろうと思う。



今日はひとりでいて、ネガティブな言葉が沢山出てしまった。そんな自分をなかなか受け入れられないが、「そういう人生を生かされているだけなのだ」と思えば、大したことじやないような気もしてきた。