昨日、慕っている一回り上の先輩と会って、洋食屋で晩御飯を食べました。
先輩はこんなことを言っていました。
「君は、壁に自らぶつかって生きているから、そういうところを尊敬しているよ。俺は壁があっても避けたり逃げたりしてきたから、君の生き方を尊敬しているし、好きだな。」
「いや、私もかなり逃げていますよ。壁に向き合っても、うまくいくことの方が少なかったですし。笑
ただ、完璧主義なところがある私にとって、こういうトライアンドエラーをしてきたことで、自分の大きさを少しずつ自覚していけているのだと思います。今もその過程なので、まだ全然ですが。」
「君は、これまでしんどい思いをして、鬱になりかけたこともあったかもしれないけど、君はそういう困難で潰れてないんだよね。俺がこれまで会ってきた鬱の人は、他人のせいにする人ばかりだった。それは病気がそうさせているのだけど、君にはまだ他人への思いやりがある。そして自分はまだやれる、と思っているところに、俺は感化されるものがあるよ。」
「そうですか。自分の生き方にまだ自信は持ててないですけど、そう言ってもらえると本当に助かります。」
大まかに言うとこんな会話をしました。

生きていれば様々な困難にぶつかりますが、この「様々な困難」の量も質も、人によってあまりに違いすぎて一緒くたにできないところに、日々の混沌があるように思います。
持って生まれたものがあって、それをうまく活用できる環境があって、そう言う一部の人たちが色々なSNSや情報媒体で発信して、あたかも煌びやかな世界が実在しているように見せかけますが、それは多くの人には当てはまらないものです。発信者が見せたいものだけを発信できることで、偏った情報提供が成されているとも思います。
この世界は不平等であることを前提として、そのなかで助け合っていくことが人間の本来のあり方だと、度々思い直しています。
幸福になるために人は生きている。
という言葉があまり私は好きではありません。
別に幸福を感じなくても、人は生きていけます。
私は、今も毎日不安を感じ、朝は小さな絶望を感じながら、それは横に置いて、生活するための行動を続けています。
何が良いとか、悪いとかは考えないようにし、ただ行動を続けています。
理想の自分とは遠いですが、現実はそう言うものだと受け入れられるように最近なってきました。
不安があっても仕事はできるし、朝小さな絶望を感じても生活は送れます。
そう言うグレーゾーンの中で生きていく覚悟が少しずつできてきました。

タフに生きていきたいです。
良し悪しの判断を横に置いて、出来得る努力はして、そんな毎日をひたすら繰り返していくうちに人生を終えている。
そういう今後を送っていきたいです。
先輩から、
「俺は今は、全力が10としたら、3か4くらいの力で生きているよ。若い頃はがむしゃらにやってみたけど、頑張っても頑張らなくても、嫌なことから逃げたとしても、自分自身は何も変わらなかった。自分を成長させようとか、理想の自分になろうと足掻いても、ずっと最初の自分のままだったんだよ。だから最近になって3か4くらいの力で生きる自分を許せるようになったよ。自分は変わらないんだから、自分を変えようとしなくて良い。自分を許せるようになることが大切だよ。」
こんなことを言われました。
私もいつか誰かに、自分の感じて得たものを伝えられるようになりたいなと思いました。
理想に捉われない自分、もっと地に足を下ろして歩けるようになりたいなと思いました。
こう言う出会いがあって、私自身が慕っている先輩がそう言っているのだから、自分もその景色をいつか見られるように思いました。
