久坂部 羊 という作家兼医師が書いた著書、
「死が怖い人へ」「人はどう死ぬのか」
と、
外国書籍の邦訳の
「資本主義の次に来る世界」
という本が、ネットサイトのカートの中に入っている。
どちらも今かなり興味があることで、読んでみたい本だ。
もう宗教関係の本はあまり読まなくなった。
ある程度、必要な概念を把握できたことと、それを踏まえた上で、宗教性だけでは現代のこの混沌を生き抜けないと思うようになったからだ。
宗教というのは、セーフティネットだ。倫理観にもなるものだが、心の社会保障に近いものであり、人が最低限生きていくための土台となるものである。
だが、多分それだけだと私には少し息苦しくなってしまう。

生きることがどういうことか考えるなら、死がどういうものかを直視すれば分かるのではないだろうか。
小学生の頃から考えているテーマなので長い付き合いだが、相対するものがその意味を反映しているのだと最近気づいた。
私の中では大きな進歩である。
平日だというのに発泡酒を飲んで酩酊している。
ちょっと嫌なこともあって、自分の置かれたこのMADな状況にも疲れてきたので、PCのキャッシュをクリアするみたいな感覚で、大して好きでもない酒を飲む。タバコは明らかに依存しているが、酒は昔からそんなに飲まない方なので、重複して依存はしていない。肺が少し痛くなるほど、喫煙してしまうことがある。
何もかもどうでもいいや、と思う自分と、ロボットのような無機的な自分を同居させながら生活している。
だから「何を考えているか分からない」と言われることがある。
初めは慣れなかったが、10年近くそうやってれば、慣れるものだ。
なげやりにならないのは、もうすでに十分になげやりになってきたからだ。
捨てるものがないので、執着するほどのものがない。
独身は気ままで自由だが孤独でもある、という感覚を持ちつつ、
その孤独を色んな嗜癖行為やなんやらで解消する自分にも慣れてしまった。

悟りとは、諦めに近いかもしれない。
本来悟りとは、諦めることが多少関わっていると私は思っている。
感覚としては、あまり現況に、自分の居場所を感じれてはいない。こんだけやってもかいなアホンダラ、と嘆きたくなる。笑
知り合いのほぼいない土地に住んで、親交を深めるわけでもなく、その場所で発生したカルマと向き合っているだけだ。
ずーーっとそんなことをしている自分に疲れてしまうが、呆れてはいない。まだ負けるわけにはいかない。生きている以上諦めることはないと思う。
実家と地元に居場所がない、という理由から始まって今に至るのだから、10年近く一人でよくやってきたなーマジ偉いなぁ、と思い返していた。