お疲れ様です。寒くなってきましたね。
駅で電車を待つ、向かい側のホームで、強く握ったスマホに向かって怒鳴り声を上げているおじさんがいました。
声には驚いても、さほど動揺しない周りの人たち。
他人の立てる物音に鈍感になる。私もそうかもしれません。
置かれた場所で咲きなさいと言われても、置かれた場所が花も咲かないような栄養のない土なら、潔く土を変えると思ってもみなかったように栄養が茎に行き渡るかもしれません。どんな土が合うかはそこにとりあえず苗を植えてみないと分かりません。
自分の人生はあくまで借り物であると肌で理解した10年ほど前から、ずいぶんと気持ちが軽くなりました。
試行錯誤、違和感、そういうものは変わらずありますが、所詮私の人生は風に吹かれる落ち葉のような存在であることを思えば、まぁ大した事ないな、と想い改めることができます。仏教を学んで良かった点です。世の中の価値観とは別にもう一つ、普遍的な価値観を持てている気がします。どんなことがあっても、私は私でしかない。
ずっと繰り返してる営みのカタチは現代風に変わっても、本質はずっと同じです。
表面的に複雑になっていけばいくほど、心の奥の芯が鋭い光を放って、「そいつらにとらわれるなよ」という言葉を投げかけてきます。

そして、どんなことが起こっても、どんなふうに自分が変わっても、それは決して自分の責任の取れるものではないと言うことを強く感じています。
人を変えてしまうのは、良くも悪くも他者との出会いであり、良い縁もあればそうでない縁が常にあるからです。それは常に、選べない状況で訪れます。
なので、自分を責める必要は全くなく、もし何かを責めるなら、そう仕向けた天や神の存在(実際にいるかと言うより、私たちが生まれてきた意味とか、生かそうとしているぼんやりとした主体のイメージ)に対して、疑問符を投げかけるようにしています。
「あなたが意図的にやってるんなら、いつかこれが意味があることだと証明してくれるよな?」と。
バカみたいかもしれませんが、このやり取りは「生かされている」と意識した時期から、無意識にずっと続けています。
単なる自問自答ではなく、見えないけれど消えもしない不思議な存在に対して、時に強い言葉で投げかけています。
最近は朝の雑踏の中で、この曲をよく聴いています。山梨県のアーティストで、足掻きながら自分の人生を探し続けている稀有な存在です。